
| 多聞櫓がらんどうが訪問した北伊勢四十八家を中心とする古城址 |
| 遺跡のうち、城跡や古墳は遺構が地上に見られるため、比較的観察のしやすい埋蔵文化財である。戦国時代伊勢の国のうち北伊勢四郡には、後来四十八家とよばれた諸侍が群居合力して周辺に対処した。そのためこの地域には特に古城址が密集している。ここにはがらんどうが訪問したこの四十八家を中心とする古城址を記したい。 |
| 神戸良政の著録「勢州軍記」によると、戦国時代伊勢の国は四分されて支配されていたという。員弁郡をはじめ桑名・三重・朝明郡は北方諸侍の各家が、協力合力して、南方の関・工藤・北畠に対処し、はたまた国境を超える近江・美濃・尾張に対処したという。近年の研究(「四日市市史」など)では、はじめこれらの諸氏はあるいは室町幕府の奉公衆として働き、「十箇所人数」として組織され、あるいは在地の諸氏は北方一揆を形成して、幕府の御家人として働いた。しかし後に十箇所人数のうちから梅戸・萱生が奉公衆に加えられ均衡を失ったのをはじめ、尾張の織田信長の台頭するにいたり、北方諸侍の運命は大きく変革された。 その後北方諸侍は長島一揆に加担して復帰を試みるも廃退、信長の軍勢として諸国を転戦するにおよんで祖の居城は失われた。 |
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