![]() 土岐氏 |
清和源氏。頼光の子頼国の曾孫光信が美濃土岐郡土岐郷に住んだのを祖とする。頼兼は正中の変に参画、兄頼貞は足利尊氏に仕えて転戦、美濃守護となる。南北朝時代には頼遠・頼康など足利方の有力な支柱として繁栄したが、応仁の乱以降は国内が乱れ、天文21(1552)頼芸の時斎藤道三に滅ぼされた。旗本に子孫が残る(角川、日本史辞典)。 頼康以後数代伊勢守護(系図赤字)に任ぜられたが南朝方の国守北畠氏との対立が続いた。政康の時には伊勢箕田城を拠点としたが、応仁2年(1468)に落城後はその所在が不詳である。 また5代守護頼忠の次男元康の子孫則康は頼芸没落の時舅細川藤賢に伴われ一時兄の保々勘解由を頼っており、のちに旗本の保々氏の祖となった。 |
| ○土岐光信━┳光基──光衡━━光行━━光定━━頼貞 ┗光長━━光衡↑ ┏時宗 ┝━┳頼清━━┓ 北条時政━━義時━━泰時━━時頼━┻宗頼━━浄心 ┗頼遠 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣頼康─┰康行━━世保康政━━持頼━┳政頼 ┃ ┃ ┗政康・・・・大膳大夫━━掃部輔 ┃ ┃ │ ┃ ┃島田 関盛元━━女 ┃ ┗満貞━┳貞達━━貞直━━益貞 ┣頼雄━━康行↑┗満名━━満清 ┏政頼 ┏頼次(旗本祖) ┗頼忠━┳頼益━━持益━━成頼━━政房━╋頼芸━┻頼元 ┃ ┗梅戸光高 ┗元康(保々氏祖)・・・・・・・・・・・・・・・・┳保々勘解由 ┗細川則康━━保々則貞 |
浄心尼(〜1348)
美濃守護頼貞の妻。平姓北条氏。貞和4年2月没。浄心妙因。墓は北勢町川原の日出山東林寺にある三重県有形文化財の宝篋印塔。中村実堂によって墓主が判明した。嫡子頼清の早死、次男頼遠の不敬斬罪、孫頼康らの内訌と晩年は心痛の日々であったらしい(北勢町史)。東林寺墓は伊勢守護となった子孫頼康あたりの建立であるかもしれない。
土岐 頼康(1318〜1387) 刑部少輔、大膳大夫、右馬権頭
土岐頼清の子。康永元・興国3年(1342)叔父土岐頼遠が光厳上皇に対する狼藉の罪で斬殺されたのち、その跡を受けて美濃守護となり、さらに尾張・伊勢を合せ3か国守護および侍所頭人となる。観応擾乱では*利尊氏・同義詮の下で重きをなし、幕政を左右する有力大名に成長。しかし、康暦元・天授五年(1379)一時足利義満の疑いをうけ追討されかけた。
土岐 康行(〜1404) 大膳大夫
土岐頼康の弟頼雄の子。初名は義行。侍所頭人。大膳大夫。頼康の養子となり、嘉慶元・元中4年(1387)家督を継ぎ、美濃・伊勢守護。明徳元・元中7年足利義満は土岐氏の分裂をはかり、弟土岐満貞を支持したため、挙兵し敗れた。その後、明徳の乱で幕府方に参じ、伊勢守護に還補された。
土岐 持頼
頼康の曾孫、応永27年(1420)伊勢国守護職となるが、後年、これという理由もないのに6代将軍義教によって、出陣先の大和多武峰において自刃させられる。「土岐世保刑部太夫持頼墳墓、大泉金井円福禅寺ニアリ(略)永享12年(1440)5月16日自刎シテ死ス。(略)其遺骸ヲ同姓土岐興安葬スル処ニシテ標石アリ。土俗石仏ト称ス(勢陽五鈴遺響』)」
土岐 某 大膳太夫 道誉
持頼の末裔で、大永2年(1522)北勢五郡を攻め取ろうとして金井城を攻撃したが、北勢地方の連合軍のために敗死、持頼の墓の隣に五輪塔を建てて葬ったとある。さらに天保3年(1832)、土岐持頼の墳墓の亡失するのを惜しんだ(金井城主の血を引く)種村氏が、桑名城主松平定永の許可を得て、自家の敷地の中に土岐大明神を祀る際に大膳太夫の墳墓を毀して小祠を建てた旨記している
土岐 某 掃部輔
丹生川中村の城主という(伊勢輯雑記) 頼康、康行、康政、持頼、道譽が大膳大夫を称した。
梅戸 光高、民部少輔、民部大夫
実は土岐政房(1465〜1519)の四男。頼芸(1500〜1582)の弟。梅戸家養子となる。(美濃明細記土岐系図)