北畠氏
村上源氏。村上天皇の皇子具平親王の子季房が源姓を与えられ、その七代通親の子通方が中院氏を称し、通方の子雅家が洛北の北畠に住んだことから、以来、北畠氏を名乗るようになった。
親房は後醍醐天皇に厚く用いられ、子顕家が陸奥守になって任地に向かうとそれに従って東国に下った。建武中興の立役者であり、その後、南朝を立て、足利尊氏の北朝と対立することになった。『神皇正統記』の著者としても知られ、南朝の柱石と称された。
親家の三男が顕能で、建武二年伊勢国司となって一志郡多気に城を築き、多気御所と呼ばれた。南朝の勢力が衰えてからも伊勢国を保った。以来、代々顕能の子孫が代々伊勢国司を継ぎ、北畠氏の嫡流となった。北伊勢にもその被官となるものも多かった。
具教に至り、織田信長に攻められ、八代三百年続いた伊勢国司北畠氏は滅亡。具教は永禄十二年(1569)、居城を追われて出家し、元亀三年(1572)、信長の二男茶筅丸を養子とし、国司を譲ったが、養子信雄(茶筅丸)に殺され、北畠氏は滅亡した。
柚井城主西松氏は北畠末孫という。
北畠具起(系不詳)の子僧道恵(伊藤具俊)は、文明年間(1469〜1486)桑名円明寺を開基。後水害のため名古屋九十軒町(東区)へ移転した。
北畠満雅の子雅顕は員弁郡石榑に移住、本姓を憚り谷子を名乗る。七代知芳のとき桑名ヘ移住、九代親雅の時商を初め桑名藩御用商となる。白木精九郎正員の子正知は母方を継ぎ16代谷子作左衛門を継ぐが、家に居らず京へ上り、中山大納言家に仕える。維新御帰郷して明治17年長島葭ヶ須ヘ移住。石香と号して明治43年楽焼を初め(地方発達史と其の人物)、現在伊曾島窯三代谷古石香に至る。
| ○北畠雅家━━師親━━師重━━親房━┓ ┌茶筅丸 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┏材親━━晴具━┳具教━╋具房 ┣顕家━━顕成 ┏政郷━╋親忠↓ ┣具政↓┣具藤 ┣顕信 ┣親郷 ┣顕晴(田丸) ┃ ┗親成 ┃○伊勢北畠祖 (大河内) ┃ ↓ ┗女神戸爲盛妻 ┗具親━━具成 ┗顕能━┳顕泰━┳満雅━━教具━┻政能━━政勝━━政成 ┃ ┣顕雅──親郷──親忠━━親泰━━具良 ┌具政━長政 ┃ ┣満泰 ┣具次━俊宣 ┃ ┃〇谷子 ┣女柘植三郎室 ┃〇木造 ┗雅顕・・・・知芳・・・・正知・・・・正賢 ┗━━━━━━━┓ ┗顕俊━━俊通━━俊康━━持康━━教親━━政宗━━俊茂━━具康━┛ |
北畠(木造) 具政
北畠晴具の二男。木造具康の養子となる。織田信長に内通して、伊勢侵攻を招いた。田辺城主となり北勢美濃堺の押えと成る。
北畠 具成(〜1608)
北畠晴具の三男具親の子。母は佐々木承禎の女。田辺城主木造具政の甥。「伊勢名勝志」に北畠氏滅亡後多気郡金剛寺に潜伏していたが、文録3年桑名城主一柳直盛に志礼石郷長に挙げられるという。草奔を開拓して農事を勧業して部民に益し、南朝3代を祀った(三朝塚)。墓は西野尻村(藤原町)字羽場三朝塚の傍らにあり五輪塔高さ3尺3寸余、梵字を刻し、台石に「久護院具成居士慶長十三年三月十四日」とあった。また母佐々木氏の墓もあるという。