矢部氏

 三崎城主。桓武平氏三浦郡矢部郷(横須賀市大矢部)に縁った三浦氏の祖為通を祖とする。為通の子義継位後は源氏方。義澄の末裔矢部慶全が桑名に居住。織田家奉行五人衆 のひとり矢部善七郎の祖。
 桑名三十六家の一。承応(1652〜55)のころまで子孫が桑名にあって、藩主松平定良に賞され伽に出てあるいは江戸に供したが、のちに故あり廃すという(桑名市郡城址考)。
 旗本に本国伊勢とする矢部正栄があり、三浦義澄の後胤という(寛政重修譜)。三崎城主との関連は未詳であるが付記しておく。

○桓武天皇・・・・・為通━━義継━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━┛
  ┗
義明━━┳杉本義宗━━━和田義盛
         ┃
矢部次郎    ┏山口有綱   ┏朝村
         ┣三浦義澄━━┻
三浦義村━━┻矢部禅尼北条泰時妻、佐原盛連に再嫁)
      ┗津久井義行━━矢部為行━━━矢部義郷
 平氏       次男矢部別当                    ┏右馬允━━━━┓
○三浦
義明━━━義澄・・・・・・矢部慶全━━━主繁━━┻女南部兼綱母)  ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 
本郷泰茂━┳本郷信富(徳川旗本祖)
┃        ┗定政↓    
善七郎   ┌定政      ┌貞治・・・・・忠左衛門(断家)
定家───┼孫兵衛━━━╋女
太田十左衛門妻  
┃  │    └
工藤慶次郎  ┣女太田道益妻
┃┏雲林院出羽守女 ↑      ┗女    ┏某       
┃┗
兵部少輔━━工藤慶次郎      ┝━━╋某
┗孫兵衛↑      
伊藤利宣━━萬吉   ┗貞治↑
桑名志・廃絶大名総覧ほか

三浦 義明、三浦大介 10921180

平安時代後期の武将。三浦義継の子。義澄義連らの父。
三浦大介と称し、1180(治承4)年、源頼朝が挙兵すると一族をあげて頼朝に合流しようとしたが、間に合わず、衣笠城に引き上げる途中、小坪坂で平家方の畠山重忠らと戦い、さらに衣笠城で籠城して平家方と合戦。1日で敗北。義澄以下一族を諭して、安房へ逃亡し頼朝と再起を図らせ、自身は城に残り討ち死。 享年89歳。
のち頼朝は、義明の恩に報いるために、大矢部に満昌寺を建立し、一族をあつく遇した。

三浦  義澄、三浦介、三浦別当 11271200

鎌倉時代初期の武将。三浦義明の次男。義村、胤義らの父、三浦本家を継ぎ三浦介、三浦別当と称す。
源頼朝の伊豆挙兵に間に合わなかったが、以後、頼朝に従い活躍。1199(正治元)年、宿老13人の1人に選ばれ幕政に参加。
墓は横須賀市大矢部の薬王寺跡。

矢部 慶全

清洲織田家に仕える(桑名志)

矢部 主繁五郎兵衛尉、右馬允

矢部慶全の子江の奥殿と称す。元亀年中の人。先祖は平氏三浦大輔義明の次男矢部別当荒治郎義澄。
主繁は初名五郎兵衛尉、大永2年(1522)連歌師宗祇がこの城に滞留。
(久波奈名勝志)
「桑名という浜につきぬ。浦の宿りは矢部五郎兵衛主繁が宿所なり。此の旅の日記は三輪がさきの雨の気色のかたきによりしるし侍ればさのの渡りと申すべからん(さののわたりの日記)」

江の奥殿と称すことより江の奥城主と同一か?

矢部 某、右馬允(1526〜1609)

主繁の子。三崎城主。慶長14年(1609)4月7日卒、84歳(桑名志)

矢部 某女

南部系図(海蔵小誌)に南部兼綱母矢部右馬介女と見える。主繁の女子か。

矢部 家定、広佳・光佳・康信、豊後守、善七郎(〜1611) 別伝

 織田家奉行五人衆 、菅谷(屋)長頼 長谷川秀一 福富秀勝(貞次)堀秀政 矢部家定、天下統一を進める織田家中にあって、行政・財政・民治の中枢を担った代表吏僚。
 矢部 某弟善七郎某は永録10年(1567)8月23日、信長に拝謁豊後守に任じられ近習。その後三万石にて豊臣の家臣。慶長16年追腹。(久波奈名勝志)。長野族雲林院出羽守の子兵部少輔の姉を娶る。この縁で文禄の役に戦死した兵部少輔の子慶次郎を引き取り養育する。(桑名志) 
 永録11年v信長桑名発向の時三崎城主矢部善七郎始めて出仕。矢部豊前守と載せる
矢部右馬介が嫡男。慶長16年卒。法号松円院殿雲岩頓大居士(神風北勢桑名往古記)

 元亀元年(1570)頃から活躍。 武将としての動きはほとんど無く、吏領としての活動が専らである。中でも天正六年(1578)に荒木村重説得の使者になったことと、同八年八月に石山本願寺受け取りの検使の一人となったことが大きな仕事であった。本能寺の変後については不明な点が多いが、小牧長久手の合戦には秀吉方として従軍。その後の天下統一戦のほとんどに従軍するが、不遇であったという。後に徳川家康に仕えて、近江で千石を知行する。http://frontierside.cool.ne.jp/retsu_index/retsuden/ya_01.shtml#yabe_iesada

 天正 5(1577)年  10月 4日 松永久通(「松永右衛門佐」)の人質2名(12才と14才)、矢部家定(「矢部善七」)・福富秀勝(「福角」)に連行 され近江国安土より上洛、明日の処刑のための上洛であった。〔『兼見卿記』一〕
松永謀叛並びに人質御成敗の事 ・信長公記)
 天正 6(1578)年正月朔日盛運年賀 御茶湯の事、茶会が終わると、諸大名・諸将の出仕があった。かれらには信長公より三献の盃が下され、矢部家定・大津伝十郎・大塚又一・青山虎が御酌に立った。
6月
16日、播磨から羽柴秀吉が上京し、播州陣について信長公の指図を仰いだ。これに対し、信長公は「謀略武略もなしに長陣していても詮はなし。まずは陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で別所が籠る三木の城を囲むべし」と指示した。この指示により神吉攻めが開始されることとなり、検使に大津伝十郎が任じられたほか、水野九蔵・大塚又一郎・長谷川竹秀一・矢部家定・菅屋長頼・万見仙千代・祝弥三郎が番替で検分に当たるよう命じられた。そして信長公自身は621日に京を出て安土へ下った。信長公記 

  5月 5日 吉田兼見、矢部家定(「矢部善七郎」)の意を受けた小笠原貞慶(「小笠原民部少輔」)より織田信長(「右府」)の盆山・ 鉢木所望の旨を通達される。吉田兼見、盆山・鉢木を携え早速持参、矢部家定が披露。
 9月 末〜 織田信長、謀反した摂津国の荒木村重(「荒木信濃守」「荒木摂津守」)を説得するため福富秀勝(「福すみ平左衛門」)・ 佐久間信盛(「佐久間右衛門尉」)・堀秀政(「堀久太郎」)・矢部家定(「矢部善七郎」)を派遣し慰留を試みる。 〔『立入左京亮入道隆佐記』〕
 11月 6日 織田信長(「信長」)、滝川一益(「滝川左近」)へ見舞として矢部家定(「矢部善七郎」)・明智光秀(「惟任日向守」) を派遣し摂津国有岡城の情報収集を指示。また織田信忠(「城介」)へも同様の指示を下したことを通達。〔「森田博三氏所蔵文書」下〕
以上3件http://www.netlaputa.ne.jp/~house/nenpyo/syokuho/syokuho12.htm

 天正6(1578)年より本格的に信長に攻められた攝津高槻城主荒木村重が、毛利氏を城を退出したところ、内部の寝返りにより落城、結果、城内に残された670名の者は、信長の命により悉く処刑されることが決まった。
 天正7(1579)年12月13日、尼崎城近くにある七つ松で、一度目の処刑。はじめに122人の妻女が磔に掛かり、鉄砲もしくは槍・薙刀によって惨殺。その後、残った男124人、女388人は矢部善七郎の検使により、空き農家4軒に閉じ込められ、火を放たれ焼き殺された。http://www.wombat.zaq.ne.jp/hokusetsu/murasige(12).html

 1580年 (天正8) 2..13 矢部善七郎を使者に笠原・間宮へ金銀百枚。 
 閏3.1 伊丹城へ矢部善七郎を遣わす。(信長公が伊丹城の城番を三十日交替で行うことを命じたため)4.1 矢部善七郎に替り村井作右衞門を伊丹城當番とする。 http://www.bekkoame.ne.jp/~h.ishi/history/nobunen4.txt
 天正 8(1580)年  8月 1日 織田信長(「信長」)、矢部家定(「矢部善七郎」)より到来した注進状を戌刻に披見、摂津国大坂方面の戦況報告を諒承。また摂津国中島周辺の封鎖を命令し、本願寺教如の石山本願寺「退城」を急ぎ実現させるよう指示。更に昨日近衛前久(「近衛殿」)に様子を申し含め石山本願寺へ下向させたことを通達。〔飯野保氏所蔵「織田信長書状」〕
 石山戦争始末として、8月2日新門跡退去。大阪城受取りの検使(大坂目付)に矢部家定が任じられた
 8月21日 滝川一益(「滝川」)・矢部家定(「矢部善七郎」)、大和国法隆寺に到着する。〔『多聞院日記』三〕     
 8月22日 多聞院英俊、昨日に滝川一益(「滝川」)・矢部家定(「矢部善七郎」)が大和国法隆寺に到着し、この日に奈良へ到来する という風聞により奈良中が「以之外騒」という状態になったことを知る。〔『多聞院日記』三〕  
 8月24日 矢部家定(「矢部善七郎」)、大和国興福寺へ到来。〔『多聞院日記』三〕http://www.netlaputa.ne.jp/~house/nenpyo/syokuho/syokuho14.htm

 天正9年(1581)、長岡勝竜寺城の細川藤孝が宮津に移ると、矢部善七郎、猪子平助が守将になった。
 天正10年(1582年)1月15日の爆竹の時、菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・矢部家定が小姓・馬廻を率いる特別の地位を認められた。
 天正10年、安土において徳川家康・穴山梅雪への饗応、三月二十日「穴山梅雪御礼。(中略)今度忠節比類なきの旨上意にて、本知安堵の御朱印、矢部善七郎・森乱、両人御使にて下され、忝き次第なり。」(信長公記)
 1582年、淡路への侵攻を準備中に本能寺の変が発生、淡路侵攻を中止して豊臣秀吉に属した。1584年に小牧・長久手の合戦、1587年の九州征伐などに参加した。

矢部 定政 (やべ さだまさ) 生没年不詳

 豊後守。豊臣秀吉の臣。織田信長の側近矢部家定の養子。実父は本郷泰茂。本郷氏は村上源氏の一流で、若狭国大飯郡本郷の地に代々住し、1570年、家定の仲介で信長の傘下に入った。定政が家定の養子となったのはこの時の縁によるものと思われる。本能寺の変後、養父とともに秀吉に仕えて馬廻となり、1590年頃家督を相続する。1590年、小田原の役に従軍。文禄の役では肥前名護屋城に駐留し、同城二の丸を警護した。1598年頃、1万石を領有。ただし領地・家督相続年月日は不明。1600年、関ヶ原の役で西軍に属し、伏見城攻撃に加わったため、戦後所領を没収された。『徳川除封録』には改易後、200石を与えられたと記されているが、確証はない。実兄本郷信富の系統は旗本として存続している。http://wolfpac.press.ne.jp/daimyou08.html

矢部 某、孫兵衛(〜1626)

 善七郎の弟。兄が信長に仕えて他国へ赴いたため兄の家督を継ぐ。男子が無かったため三女の次男伊藤貞治を嗣子とする。寛永3年死。

矢部 某、忠右衛門

 この人出家のため桑名矢部家断絶。

矢部 某、甚兵衛

 天正11年ごろ織田信雄の奉行人。矢部善七郎の同族かという(加藤益軒「織田信雄の尾張・伊勢支配」、戦国期権力と地域社会所収)

矢部氏(旗本

鶴丸
左巴

 本国伊勢。家伝に三浦荒次郎義澄の後胤。正栄の時、徳川家忠の御台所人となる。鶴丸の紋は家光の仰せにより正栄が献歌した時、上意によりこれを家紋としたと言う。
                    ┌正相
                    │ │
○矢部正栄━━正春━┳正定━╋女
               ┗女   ┠正府        ┏女
                    ┃ ┝━━┳正英━┻正方━┳正保
                    ┣女    ┣正央       ┣女
                    ┗女    ┗女         ┗女

 

矢部氏(岡山藩士)  
○矢部越後━━善兵衛━━.源右衛門━━半兵衛━━源右衛門━━源右衛門━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗半兵衛━━唯之介━━半蔵

 

四十八家(TOP)

 

 

 

 

 


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