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宇佐美亮徳 |
宇佐美祐則 | 宇佐美祐則(原図) |
宇佐美氏 そわら氏?
三つ瓶子(藤原南家為憲流工藤氏族)。菰野藩士の宇佐美亮徳家は角立四つ目結、宇佐見祐則家は雪輪に角立四つ目結?。
宇佐美氏は伊東の宇佐美郷に拠った氏族で、工藤祐経の弟三郎祐茂を祖とする。祐茂は鎌倉時代初期の武将で容姿が美しく、騎射の名手であったといわれる。源頼朝に属して伊豆目代の山木兼隆を討ち、その後も多くの合戦に従って功労多く、頼朝二十五功臣の一人に数えられたという。
これより先桓武平氏城氏から出た大見氏は伊東の大見郷に拠り、大見實政は宇佐美氏を称している。大見氏と伊東流の宇佐美氏とは同族関係でもあったようだ(はりまやhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kakizaki.html)。
| ○大見維繁━┳家信━━家親━━光政━━家常━┓ ┣家光 ┃ ┗宇佐美實政 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗家政━┳實村 ┗女 ┏祐親 ┝━━┻祐継 ○工藤家次━┳祐家 ┏祐経 ┗祐次━┻宇佐美祐茂━━祐政━━祐秀━━祐泰━━祐明━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗安祐━┳祐辻━━祐行─┰詮祐━━満秀──満茂──持祐━━教祐━━勝祐 ┃ ┗祐益━━方秀━━房長━━祐熈━━定秀──孝忠━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗房忠━━定満━┳定勝━━勝行 (紀伊藩軍師) ┃ 定行 ┗良興━━良賢━━定祐━祐冬━正矩━正純 ┗正安━┳詮祐 ┏祐邦 ┣正種━━祐興━┻良則━━良○━━国良━━家良━━良治┐ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗良益━━興良━━良○━━良年━━良一 ┗正親・・・(9世)眞次━━眞信━┳眞宗 ┗眞俊━・・ |
北伊勢の宇佐美氏については、近世の地誌に記述がなくその居城も不明である。唯一「北方一揆連署状」に「宇佐美勘解由左衛門祐永」の署名が確認できる。四日市市史ではこれを「伊勢国十ヶ所・北方一揆人数注文」の「そわら」に推定して仮に御薗城に宛てている。これよりさき三国地誌に応永・永享の頃、朝倉下野入道が朝明郡豊田庄「宇佐美新右衛門入道門阿名田」を買得して朝明郡洪恩寺に寄進の記事が見えており、宇佐美氏が北伊勢に所領を持っていたことを示唆している。
天文年中梅戸高實は北畠に備え、比叡山常光坊に隠れて、上杉氏の重臣宇佐美定行を頼みその兵法を受けた(小川重太郎稿)。宇佐美定行は定満をモデルとした架空人物とされているがその兵学は徳川諸藩に伝えられている。
降って土方氏が員弁郡より薦野に入城した当時の家臣梅戸権右衛門は宇佐美平入の次男といい、福村の庄屋に宇佐美氏があるので、宇佐美氏は北伊勢の名族の一であり、梅戸氏と近い関係にあったのであろう。宿野に宇佐美氏の居住した城屋敷が残っている。
長島一揆殲滅の後、天正末になって河内市江島を宇佐美・服部・佐藤・伊藤四家によりその耕地を再開発したという。また加呂戸の和泉新田は冨田の南部氏に寄食した宇佐美俊氏の族冨田拓良の開発である。
多度南郷の専光坊開基は宇佐美専八郎という。
| 菰野藩士 ○宇佐美平入┳某 ┗◎梅戸権右衛門━┳三右衛門━━権右衛門 ○宇佐美彌助━━直助 ┗不破小藤治 〇宇佐美某━━祐軒━━祐一 |
宇佐美 祐永、勘解由左衛門尉 「北方一揆連署状」に見える署名。 「そわら」の人?
宇佐美 某、新右衛門 宇佐美新右衛門、朝明郡豊田ノ庄(三重国盗り物語)
宇佐美 某、新右衛門、入道門阿
応永・永享の頃、朝倉下野入道が朝明郡豊田庄「宇佐美新右衛門入道門阿名田」を買得して朝明郡洪恩寺に寄進している。(三国地誌)
宇佐美 某 専八郎 了閑
伊豆の人。大坂夏の陣に篭城したが落城、多度南郷に至り元和2年剃髪して了閑と称し、草庵を一専堂と号した。寛永4年東本願寺末専光坊免許(多度町史)。北方一揆とは別系か、しばらくここに置く
宇佐美 平入、 梅戸権右衛門の親。
宇佐美 某、 梅戸権右衛門の兄。
木ママ佐美 某、藤蔵 土方雄豊時代に暇乞い。100石立退とある。
宇佐美 某、彌助
福村(菰野町)の庄屋。江戸へ降り町奉公のあと雄久公代()菰野藩下役人にお抱え御取立て、中小姓役になる。隠居して壱人扶持。子に直助あり(菰野町史)。元禄11(1698)年分限帖に7俵1人扶持(菰野村史)。
宇佐美 某、直助 彌助の子。菰野藩士7両2分3人扶持
父と共に江戸に至り林大学頭門に入り朱子学を学ぶ。17歳にして藩侯の御前に大学を進講。藩儒龍崎致斎も幼時に直助に句読を学ぶという。長じて父と共に藩侯に仕え御中小姓格。江戸にて1寸2分の強弓を引くものわづかに三人の一人。まもなく致仕して江戸に浪居したが或日紀州邸前に屠腹自殺した(菰野村史)。
宇佐美 某、八郎右衛門 菰野藩士、高百石。雄高公の時(1612〜1638)御暇。
宇佐美 某 小兵衛
享保年間(1716〜1735)の菰野陣屋御殿・家臣屋敷図にみえる。位置は東木戸から一軒目北側。(菰野城址発掘調査報告)。
宇佐美 祐則 才助
嘉永5年(1852)菰野陣屋内家臣屋敷割絵図に「四百六十四坪、宇佐美祐則、高二石九斗八升九合」とみえる。位置は東木戸から三軒目北側。
また城外南側にも屋敷地が見える(菰野城址発掘調査報告)。
宇佐美 某 亮徳 誠蔵
嘉永5年(1852)菰野陣屋内家臣屋敷割絵図にみえる。位置は城外北東側。(菰野城址発掘調査報告)。
宇佐美 某 遠助
嘉永5年(1852)菰野陣屋内家臣屋敷割絵図にみえる。位置は城外北東側。(菰野城址発掘調査報告)。
宇佐美 某 祐軒
実は朝明郡中野村世医中川康広の次子。少より医を学び経子を修めて医学儒術に精通した。宇佐美家を継ぐ。天保6年藩の医官となる(菰野村史)。
宇佐美 祐一 精得(1820〜1877)
幼名大助、字徳夫、号如水。祐軒の子。文政3年10月16日中薦野村の屋敷に生る。幼より学を好み、長じて南川定軒に句読を学ぶ。後に津藩儒川村貞蔵竹坡の門に経史詩文を修める。天保9年6月京へ遊び森田主一郎に医学を修めるが同14年3月江戸に登り幕府奥医法印多紀元堅の塾に入り医術を研鑚する。弘化4年正月業成り帰京し家を継ぎ医官を拝した。
安政の始め南川定軒没するに及び平井時善と共に藩学脩文館の教授を兼任。明治2年藩学顕道館の講師を命ぜられて国学教授頭取となり同四年廃校に至る。
明治10年3月病没、年58(菰野村史)
宇佐美俊重(冨田氏)系
もとは南部氏の食客。
○宇佐美祐茂・・(6世)安祐━━正安・・┳冨田俊重━━宅良━┳某━━舎美
┗(14世)俊氏 妻寺尾氏┣某
┗某桑名郡志
宇佐美俊氏 祐茂14世。富田に来り南部氏に寄食。
冨田 俊重 忠左衛門(〜1648?) 宅良の父、俊氏故去のため尾張古見村(知多郡)へ移住。
冨田 宅良 彦兵衛(1615〜1703)
俊重の子、宇佐美俊氏は叔父。古見村の豪農。慶安元年(1648)現和泉新田の地に父と移住。間もなく父俊重は卒するが、芦原の繁を見て開発の意を興して翌慶安2年長島へ居移して、新田開発を申請。承応2年(1653)ようやく許しを得て開発に着手したが、数年は旱魃や台風による水入りなど辛酸を窮めた。
寛文中(1661〜1673)その功績のため長吏を命ぜられる。また古見村にあった真言宗源盛院を迎えた。
元禄十六.12.27逝去。86歳。妻は寺尾氏、子三人。
冨田 舎美 彦兵衛
宅良の孫。宝暦6年(1756)冨田子新田を開発。安永6年(1777)祖宅良のため墓誌を乞う。