梅戸、梅津氏

 梅戸城主。田光城
 梅戸家は伊勢平氏冨田家資の後胤という。佐々木六角高頼の四男高實を養子に迎えた。享徳2年(1543)に梅戸高行があった。また春日部氏の族ともいう(小川稿)。
 家臣に因(出口)家渡辺家がある。因道春(道信の誤か)は城主京都大番留守中にその内室の不義を発見、内室は城主に時分の不義の発覚するを恐れて、因道春を無失の死罪に陥れた。このため梅戸氏は代代たたりがあり亡失したという(羽場本阿下喜根元記)。
 梅戸蔵人末某(田辺村庄屋島田久之丞妻の曽祖父)は石川城齋藤加賀守の娘を娶った(羽場本阿下喜根元記)

○梅戸貞實━━┳
          ┗大石長實

                     ┏政頼
土岐持益━┳成頼━━政房━╋━━━━頼芸
         ┗女         ┗
梅戸光高 ┝━━頼秀
           ┝━━┳定頼━━━━━━女 
○六角政頼━┳高頼  ┣
梅戸高実━┳高宗
         ┃     ┗春日部氏 
┣高秀(實秀)
         ┃             
┗高資
         ┗種村高成━━定秀━━高盛

梅戸 高行、三河入道

 

大石 長實

 梅戸次男。文明8年(1475)、荒木田氏経より大井田御厨上分米の納入を命ぜられた。文明9年(1477)11.29、大井田上分米を納入。文明12年(1480)再び荒木田氏経より大井田御厨上分米の納入を命ぜられた。文明13年(1481)荒木田氏経より大井田御厨上分米・近辺神領税の納入を命ぜられた(四日市市史、氏経記)。

梅戸 貞實、左衛門三郎

 文明9年(1477)4月朔日、伊勢貞宗へ伸鮑千本を贈った。文明12年(1480)2月3日伊勢貞宗・貞陸父子に年始の礼として太刀・金子・鷹を贈る。文明13年(1481)8月朔日、伊勢貞宗・貞陸父子に八朔の礼として金子、伸鮑を贈る。文明13年(1481)12月11日、伊勢貞宗に歳暮として牡蠣50合を送る。文明15年(1483)1月29日、伊勢貞宗・貞陸父子に年始の礼として太刀・金子・鷹を贈る。文明17年(1481)8月朔日、伊勢貞宗・貞陸父子に八朔の礼として太刀・金子、伸鮑を贈る。(親元日記、四日市市史)

梅戸 某、三河入道

 文明13年(1481)12月23日、荒木田氏経より大般若経寄進の謝礼状を賜う(氏経記、四日市市史)。高行とは別人か?

梅戸 某 加賀守

 文明16年(1484)10月11日、伊勢貞宗、亀泉集証に梅戸加賀守への一筆を請うた。文明17年(1485)11月25日山上含空院(永源寺)領守忠名で日野政資被官山形四郎左衛門違乱のため梅戸加賀守・小倉伊豆守が派遣された(蔭涼軒日録、四日市市史)。

梅戸 某 修理亮

 文明18年(1486)4月25日、洞春院集主鶴都寺、梅戸修理助を神部河尻代官に補任。長享2年(1488)8月京極政経は弟高清と近江松尾で戦い破れて被官多賀経家と4日伊勢梅津へ逃れた(蔭涼軒日録、四日市市史)。

春日部 某 左衛門大夫(尉)  門前村領主、佐々木高頼第5子を嗣子とする(諸士禄)

梅戸 高実、左近太夫(1502〜1561または1575)

 佐々木六角高頼の四男。梅戸家を継いだ。永録4年(1561)4月10日江州高宮にて頓死。(三国地誌)
文亀2年(1502)11月2日生れという(小川重太郎稿)
梅戸 高実、孫九郎
 大安町梅戸の共同墓地はむかし赤松の巨木がある孫九郎(まんくろう)塚であった。梅戸城が落城の時、長島の滝川一益のもとで自刃した。家臣が当地で弔い松を植えたところ、どこからか一羽の鳥が飛んできて、この松を持ち去り、梅戸家代々の墓所に植え付けたと伝えている(小川重太郎遺稿)
梅戸 高実、左衛門尉(〜1575
 当寺(梅土光蓮寺)開基梅戸左衛門尉高実公 当梅戸城主 於本州長嶋傷害(光蓮寺過去帳)。天文13年(1544)、僧心清に帰依して光蓮寺を中興(員弁郡郷土史料)
梅戸 (高實) 治部少輔
 天文7年(1538)6月17・18日、本願寺証如に音物を致し、19日証如これに答礼。同12月、長野氏と共同支配を行っていた桑名を長野氏が侵攻したため、12日本願寺証如に長島一向宗の来援を要請した。このため本願寺証如は16日に勢州宮田次郎左衛門へ様子を尋ねている。翌年も桑名は両氏支配であった(石山本願寺日記、四日市市史)。この年梅戸氏は幕府政所執事代蜷川氏と緊密に来往(親俊日記、四日市市史)
 天文10年(1541)5月10日、在洛のところ、本願寺証如より先年天文7年6月19日の返礼を受ける(石山本願寺日記、四日市市史)。

梅戸 光高、民部少輔、民部大夫

実は土岐政房(1465〜1519)の四男。頼芸(1500〜1582)の弟。勢州桑名郡梅戸家養子となる。(美濃明細記土岐系図)

梅戸 高宗、刑部少輔(1520〜1554)

高実の男。天文23年11月10日卒(三国地誌)。34歳(梅戸井村史稿)

梅戸 実秀、次郎高資(1537〜1568)

永録11年3月戦死(三国地誌)

梅戸 高資(〜1583)

 高宗の弟。織田信孝に属し、その後秀吉に従って天正11年美濃にて戦死(梅戸井村史稿)。
梅戸 高資
 天正2年(1574)長嶋一揆に、服部友貞の族として宗徒数百人を率いて小田御崎砦を守備したが、信長の将軍丹羽五郎左衛門に攻略され落城した。その一部は対岸の中江砦に落ち延びたが、ここも攻め落とされたという(長嶋町史)

梅戸 蔵人 田光城主(羽場本阿下喜根元記)

梅戸四郎左衛門
梅戸角左衛門
  齋藤氏参照

 

菰野藩士、梅戸家

菰野藩士
○宇佐美平入┳某
         ┗◎
梅戸権右衛門━┳三右衛門━━権右衛門
                      ┗不破小藤治
菰野町史

梅戸 某、権右衛門

 雄次公御代より、先祖梅戸村出と云う。宿野村に450石を下され、大目付役、のちに郡代を務める。実は宇佐美氏と云う。宇佐美平入と云う者の次男なり。口碑所伝、菰野藩祖土方雄次、員弁郡より封を菰野に移されし入部の時随行の譜代11名の家臣のひとりで150石。

梅戸 某、三右衛門

 権右衛門の子。平給人100石下され候。

梅戸 某、喜八郎、権右衛門

 三右衛門の子。雄豊公御代喜八郎と云い、御気に入りの小姓なり。のち納戸役、また御用人。のち郡代、200石に御加増、終に御年寄役あい勤。
 元禄元年(1688)宿野村の竜巌寺(臨済宗)の開基。

宇佐美 平入、

梅戸権右衛門の親。

宇佐美 某、

梅戸権右衛門の兄。

梅戸 某 頼母

享保年間(1716〜1735)の菰野陣屋御殿・家臣屋敷図にみえる。位置は藩主御殿敷地の北側隣。(菰野城址発掘調査報告)。

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