千種氏

 村上源氏久我家の流。太政大臣通光の子六条通有の曾孫忠顕が千種を称す。南朝後醍醐天皇の側近として功有り、三重郡24郷を領した。
 千種城主。弘治年中北伊勢の総大将。

 千草の上の丸山の城主。千草三郎右衛門、後入道卜斎子無く、後藤但馬守の弟を養子として三郎右衛門という。その後実子又三郎ができ、跡目を心配して、卜斎、又三郎が高分村(不詳)へ出かけた隙に城門を閉ざし親子を締めきった。父子は川北村へ立退き、その後江州へ六角氏を頼り浪人。
 「伊勢輯雑記」星川城には永禄3(1558)暮春の頃千種常陸介は萱生春日部大膳、星川春日部若狭守を与力として三重郡閏田音羽に陣取り千種城主千種太郎左衛門忠基を攻めるという。

 三郎右衛門は美濃国加賀之井城攻めに加勢して討死。滝川長島に居城の時、又三郎は滝川に従ったが、江州佐々木に中心あるとしてこれに切腹を申しつけた。その後信勝卜斎を召し出し、千草村を安堵。富田信濃守を養子として奉公に遣わす。信勝流浪の後は秀頼に属し音羽村に600石を賜う。大阪篭城の時父子討死。(旧城跡付)

 後裔に旗本直参美濃郡代清右衛門あり。
 弥左衛門家ははじめ津の藤堂家に仕えその子孫は南部藩に仕えた。
 平尾には寛延3年(1750)ころ庄屋千種平兵衛があり、その後裔は神奈川県藤沢市鵠沼にあるという
 日永には千種作右衛門、甚兵衛の二軒が陣旗を所有していた。同地の薬師堂本尊は千種常陸介が伊勢安国寺の兵火より救い出したものと伝える。
 伊勢の辻久留には千種朴斎の南勢隠棲時の子孫千種勘兵衛があり、後に愛知県江南市中奈良山の上に移転した(千種滋家)。

 南勢国司の族に千種顕親があるが関係未詳。史料には北勢の千種は千草と表記される。

                 後藤實基の後(近江)後藤基明━┳基勝
 
村上源氏                                  ┗忠基↓
千種忠顕┳通治━隆通━有村━治清━治庸━忠治┰忠基━川村源三郎
       ┗顕経                  (忠房)┣又三郎
                                  ┠顕理 
富田知信の子
                                  ┣女 萱生春日部俊泰室
                                  ┗女 
萱生春日部実勝室
伊勢名勝志他
  忠顕━顕経━雅光━具定━治康━通治━隆道━治清━忠治━顕重━顕理
辻家系図(菰野町史)

千種 忠顕、参議(〜1336) 従三位左中将

 権中納言有忠の二男。後醍醐天皇の近侍。元弘元年(1331)元弘の乱に後醍醐天皇に従って隠岐に移り、元弘3年(1333)天皇とともに隠岐を脱出、天皇を伯耆船上山に移した。忠顕は頭中将の栄職に任じられ、忠顕自ら兵山陰の軍勢を率いて、赤松則村・足利尊氏とともに六波羅を落とした。
建武政権では参議に進み佐渡など3国の国司となり、数多くの没収地を与えられた。元弘の乱の功により三重郡24郷を領し伊藤吉治を目代として千種に置いた。(伊勢名勝志)
建武2年(1335)尊氏が反乱して上洛したとき、名和長年等とこれを打ち破って西走させたが、翌年再度足利直義の軍勢が比叡山の行在所に迫ったのを防ぎ、直義軍と西坂本で戦いついに坂本雲母坂討死。(角川日本史辞典)
延元元年没 禅林寺院殿崇悦大居士(菰野古碑とその風土)

千種 顕経(〜1377) 正二位権中納言

 忠顕の二子。父の志を継いで南朝に仕え、正平七年(1352)北畠親房の指揮する南朝軍とともに、足利義詮と戦った。正平24年(1364)足利義満は、土岐頼康に命じて北伊勢を攻めさせた。9月、北畠顕康の命により三重郡に数城を築き、自ら禅林寺城に居り総括(伊勢名勝志)。
永徳元年(1381)に、千種に移り山城を構えた。
天授3年没(菰野古碑とその風土)

千種 顕親 号八知

 南勢国司北畠氏の族、明徳2年(1391)に名が見える。応永21年(1414)には木造庄代官(久我家文書)

千種 雅光(〜1422) 従三位権中納言  応永29年没(菰野古碑とその風土)
千種 具定(〜1466) 正二位権大納言  文正元年(1466、菰野古碑とその風土)
千種 通治  千種城主  南漸院殿大嶺通治大居士(菰野古碑とその風土)

千種 隆通 民部尉

忠顕の長子通治の子。永徳元年(1381)、岡村に築城ここに居り、千種村と改める。(伊勢名勝志)
千種城主。法鱗院殿徹底隆道大居士(菰野古碑とその風土)

千種 有村  隆通の子。(伊勢国誌稿所引鵜川村實相寺過去帳)

千種 治庸(〜1522) 式部少輔

有村の子。瑞光院賢公治庸大居士。(伊勢国誌稿所引鵜川村實相寺過去帳)
永正元年(1504)禅林寺住持錬関宛に知行50石を永代寄進(禅林寺文書、菰野町史)
千種 治庸 常陸頭 
 文亀3年(1503)大強原山廬遮那寺の故地に向陽軒一宇を造建、翌年禅林寺と改める(下鵜川原村村誌、菰野町史)。
大永2年没。瑞光院殿即廬遮那賢公治庸大居士(菰野古碑とその風土)

千種 治清(〜1544) 左京太夫 修理之高(ママ)

治庸の子。善住院月潭治清大居士。(伊勢国誌稿所引鵜川村實相寺過去帳)
天文13年没 善住院月票治清大居士(菰野古碑とその風土)。

千種 忠房、忠治、常陸介(〜1556)、卜斎入道

 忠治とも。忠顕の後。千種城主。弘治年中北伊勢の総大将。宇野部、後藤、赤堀、楠、稲葉、南部、萱生、富田、浜田、阿下喜、白瀬、高松、持福、木俣等従う。
弘治3年(1557)、近江佐々木義賢はその家臣小倉三河守に命じて兵3000を与え、北勢侵攻のため初めに千種城を攻めた。戦半ばで和親を結び佐々木の家臣後藤忠基を養子として迎えた。このとき千種家が六角家に属したので北勢の諸氏みな江州に従う。
 その後忠房は入道卜斎と号す。実子又三郎をもうけ家系を継がせようと密謀を練るが、養子の忠基の知るところとなり、川北村に蟄居。後江州に走りて六角家に食給。
滝川一益長島に居城のとき、入道父子は一益に属し長島に居住するも、一益江州に同心して家臣海津某に命じて又三郎を誅殺。卜斎は入道のため難を逃れ伊賀国に逃げる。
 信雄が一益を追い長島入城のとき卜斎入道に千種城を給う。富田信濃守の甥某を嗣子とする。

千種 忠治、常陸介 治清の子。台雲院肇春大居士。(伊勢国誌稿所引鵜川村實相寺過去帳)
千種 某 常陸介 禅林寺境内殺生竹木伐採禁止の制札(菰野町史)
千種 某 常陸之介 伊勢安国寺が天正の兵火に炎上したとき救出した薬師如来像が日永薬師堂に現存する(菰野町史)
弘治2年没 台雲院殿肇春忠治大居士(菰野古碑とその風土)。
千種 顕莫 修理正 養子の三郎左衛門に千種城を奪われた後、一志郡八地に隠棲、その子孫は霧山城の北畠氏の庇護を受けた(菰野古碑とその風土)。

千種 忠基、顕重、有吉、三郎左衛門尉(1525頃?〜1584)

 忠房の養子。弘治3年(元年或は二年ともいう。言継卿記の記事からすると元年=1557か)、近江佐々木義賢はその家臣小倉三河守に命じて兵3000を与え、北勢侵攻のため初めに千種城を攻めた。戦半ばで和親を結び佐々木の家臣後藤忠基を忠房の養子として迎えた。
 忠基は実は後藤兵衛尉實基の後裔、播磨国住人後藤三郎左衛門基明の嫡孫で、六角家第一の重臣。後藤但馬守基勝の弟。
 忠基は織田信雄のために天正12年(1584)美濃加賀の井城を守り、秀吉の兵と戦い討死。千種も落城。その後生駒雅楽頭領有。
千草 三郎左衛門  
 
天正12年(1584)3月、上方の秀吉勢、安楽越え勢州乱入のため信雄方の千草の城千草三郎佐衛門は長島へ退去。(武功夜話)
千草 三郎兵衛
 
千草三郎兵衛 天正12年 加賀の井攻めの備え衆(武功夜話)
5月6日城主賀々井駿河守の命により、伊勢国住人嶺・久須・千草・上木四人が大将となって、夜陰に乗じて寄手の陣へ討って出た。この時千草は蒲生氏郷の母方の叔父(後藤氏より養子)であったため注進があったというが、蒲生は此れを無視した。この夜討で四大将は討死。千草はこの時60才ばかり、氏郷の手元に生捕られ、首を切られた(氏郷記)
千草 三郎左衛門  弘治2年(1556)9月、山科言継卿記に見える。
千草 有吉 三郎左衛門尉
 永録3年(1560)ころ三河商人の木綿荷を四本商人が差し押さえたことに抗議。四本商人に枝村商人の伊勢道通行を拒否。保内商人からは礼物の贈給あり。同族に左衛門大夫あり(今堀日枝文書)
千草 某 天正11年(1583)ころの「織田信雄分限帳」に饗庭郷に400貫文を知行。

種 忠基 伊之助(〜1603)
 千種落城後、出家して頓乗と称して道場を開く。慶長8年死没(没年三郎と合わず、別人か)。はじめ浄安寺、後の三岳寺(真宗大谷派、菰野古碑とその風土)

千草 某 左衛門大夫

 永録3年(1560)ころ有吉の同族。保内商人から礼物の贈給あり(今堀日枝文書)

千種 某、又三郎

忠房が入道となってからの実子。
忠房は家系を継がせようと密謀を練るが、養子忠基の知るところとなり、川北村に蟄居。後江州に走りて六角家に食給。
滝川一益長島に居城のとき、入道父子は一益に属し長島に居住するも、一益江州に同心して家臣海津某に命じて又三郎を誅殺。卜斎は入道のため難を逃れ伊賀国に逃げる。

千種 顕理、又三郎(〜1615)

信雄が一益を追い長島入城のとき卜斎入道に千種城を給う。富田信濃守知信の甥某を嗣子とする。信雄牢落の後は秀吉に陪従、本郡音羽村に600石を領す。伊勢名勝氏に忠治の養子顕理を音羽村に移す、後秀頼に仕え大阪の役戦死すという。

千種 又三郎  元和元年(1615)大阪の陣に千種又三郎戦死して滅亡。
千草 修理進  大阪夏の陣参加(三重国盗り物語)
千草 某、又市  
千草城主(桑名雑記)
千種 又三郎敬忠 元和元年大阪にて討死 一管宗実居士

千種 某女  忠治の女。萱生城主春日部俊泰

千種 某女  忠治の女。萱生城主春日部実勝室。諡春心院歓娯妙喜大姉(宿野小澤氏系図)

旗本六郎右衛門家

源氏 千種 本国某 紋左三巴(断家譜)

旗本六郎右衛門家
◎六郎右衛門━━清右衛門━┳直忠━━━┳惟忠━┳女子
                   ┣水野孝  ┣某夭  ┣鉄五郎(断家)
                   ┣某夭     ┣女子  ┗女子
                   ┗某夭     ┗女子
断家譜・菰野町報

千種 某、六郎右衛門

御徒大岡五郎右衛門(清重)組寛文9年11月2日御徒目付。同11年12月23日御加増30俵、同12年11月18日屋敷拝領。延宝7年6月19日7年6月19日小細工頭。貞享2年12月23日舘林小普請奉行。

千種 某、清右衛門(〜1708)

六郎右衛門嫡子。
元禄12年6月5日御天主番、のち小普請久貝因幡守(正方)組。
宝永5年12月4日病没、浅草祝言寺に葬る。法名玄光院機外道超。

千種 直忠、六郎右衛門、清右衛門(1688〜1767)

清右衛門嫡子。
八代将軍吉宗にみいだされて、はじめ越後の代官に赴任、その後宝暦八年(1758)美濃郡代に任命される。
美濃郡代岐阜県笠松町にあった江戸幕府の「笠松代官所」の長官、美濃郡代は、関東郡代に次ぐ要職。美濃、尾張、伊勢の幕府直轄領の支配と、木曽、長良、揖斐三大河川の治水事業の施工管埋がその主な任務で、また中部、東海の諸大名、各藩の動静に目を入れる役。 特に布衣郡代といわれ役高四百俵の禄があった。
卒年79、葬笠松瑞王寺

水野 、三右衛門

水野小右衛門重好聟養子。実は千種清右衛門弟。

千種 某、(〜1699)

千種清右衛門弟。
元禄12年3月8日夭。法名元聊童子。

千種 某、(〜1672)

千種清右衛門弟。
元禄15年8月10日夭。法名幻朝童子。

千種 惟忠、新九郎、六郎右衛門(1726〜1786)

千種清右衛門嫡子。
妻は山口兵庫支配御医師丹羽玄孝の女子(〜1774)。安永3年8月18日没、法名桂林院月岑貞秀。

はじめ江戸城の書院番、父が老衰して退隠したため、その跡を継ぎ明和三年(一七六六)郡代に任命された。 この年、木曽川と長良川揖斐川の上流部が洪水で堤防の決潰、田畑浸水の大被害が発生、幕府はこの堤防の国役普請に萩、小浜、岩国の三藩に工事の手伝いを命じました。新任の郡代六郎右衛門はその川普請の指揮監督に当った。
つづいて明和五年(一七六八)こんどは阿波徳島、豊後岡、久留米、秋月の諸藩に、手伝い普請が命ぜられた。それは、飛騨川、長良、揖斐の上流部分が大雨で、山崩れや田畑の流失、家屋の浸水などの大被害の発生による難民救助と災害復旧事業を行うためであった。
また六郎右衛門は、笠松代官の管内の村々の山林に、杉、檜の植林、蝋の木、楮、桑の植栽を奨励。父清右衛門と二代にわたり治水事業に取組んだ、その功績が認められて天明五年(一七八五)には若年寄支配に栄進した。

当時笠松において医業と家塾を開く伊藤冠峰は菰野出身である誼で代官役宅を訪ね親しく交際していた。安永五年(1776)の七月十五日清右衛門郡代のとき代官はお盆の先祖供養に千種家の菩提寺である下鵜川原の禅林寺に先祖の位牌を預けることを冠峰に依頼。(菰野町報)
同時に家臣加藤三郎兵衛を使者にして下鵜川原村の禅林寺に参詣させ、先祖の供養を行っている。そして、同月、禅林寺住職は松笠陣屋に代官を訊ね、千種家菩提寺のい委細を報告したことが「辻家文書千種家の記録」に残されている。
(はりまやhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/tigusa_k.html

卒年60、葬笠松瑞王寺

千種 某、(〜1721) 千種惟忠弟。享保6年正月28日夭。法名韶光禅童子。
千種 某女 千種惟忠妹。布施孫左衛門に嫁す。
千種 某女 千種惟忠妹。菊地彦三郎に嫁す。
千種 某  千種惟忠女子。母は丹羽玄孝女子。西丸御小姓組小笠原権九郎に嫁す。安永9年12月19日縁組。

千種 某、鉄五郎(鉄十郎

千種惟忠子。母は丹羽玄孝女子。
三代目の郡代鉄十郎は父六郎右衛門の死没によって三十歳で父の跡目をつぎ郡代に任命された。こうして父祖三代にわたって郡代職を継承したのは異例であった。
美濃郡代は、千石取りの直参旗本で、笠松では御代官さまとよばれ、その地位と権勢をふるうためには意外の出費が必要で、鉄十郎の祖父の代から家計は逼迫、借金はつのる一方であった。そのために鉄十郎は管内十六カ村の庄屋に請印をさせて名古屋の商人信濃屋五兵衛に二千両を借り受け借り替えの処置を行なった。その返済は初め三ヶ年は実行されましたが、後はだんだんに滞納となり、困った貸主の五兵衛は訴え出て、これが幕府の知るところとなった。ことが公になったので鉄十郎は代官を罷免され江戸へ召還の命が下りた。(菰野町史)
断家譜に鉄五郎となっている。

千種 某女  千種惟忠女子。

南部千種家
 千種弥左衛門、はじめ津藤堂家に仕え後浪人、その子成業は南部家に仕えた。子孫は東京都新宿区矢来町に千種乙女、奈良西大寺の千種成吾楼がある。

◎弥左衛門━━成業・・・・┳・・・・千種乙女
                ┗・・・・千種成吾楼
菰野古碑とその風土

千種 某 弥左衛門 津藤堂藩和泉守に仕え400石。その後浪人。
千種 成業 右近 盛岡に移転、正保2年(1645)、南部家に仕える。墓碑は盛岡市寺内町。 

川村家
 千種三郎左衛門(忠基か)の三男源三郎が朝明郡竹成村の川村に住んで川村を称した。その後裔三重郡高角村に移住。伝左衛門の四男尚盛は津藩郡方手代より士林に列し郷代官格に昇った。

◎千種三郎左衛門              ┏某    
  忠基━┳某                 ┣某    ┏女
      ┣某                 ┣某    ┣尚迪──寛━━尚武━━尚賢
      ┗川村源三郎・・・・・伝左衛門━┻尚盛   ┣某 
                            ┝━━╋女
                      稲垣義兵衛女  ┗佐治為孚
明治の父子

川村 尚盛(1753〜1830)
川村 尚迪(1797〜1875)
川村 寛(1852〜1936)
川村 尚武(1878〜1970)
川村 尚賢(1902〜1985)

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