
諏訪氏・中島氏
楠山城主。
北畠顕能の命によりその被官諏訪貞信が居城。のちに同家は武衛直屡士となった為、北畠満雅の命により楠正成の玄孫正威が城主4代目となる。(楠町史)
諏訪氏は代々諏訪社の大祝となった信濃の名族で、源平争乱に盛重が頼朝に仕えて、諏訪太郎を称したのが諏訪氏の名乗りのはじめとされる。以来鎌倉の御家人。
諏訪氏は2代目よりその居城の置かれた中島氏を称した。
| ○諏訪貞信━━━┳貞益 ┗貞則───楠正威 |
楠山城主。楠山城は正平24年(1369)北畠顕能の子顕泰の築城、同家の被官であった十郎貞信に手勢300騎を添えて中嶋四郷護らせた。
大徳院殿高山義操大居士 墓は菩提寺正覚寺(今亡)
室は山田城(家城山)主矢田蔵人入道の女。応永10年(1403)没。諏訪 正信 十郎
正覚寺由緒に桑名雑誌を引用して、楠正成討死のとき妾腹懐胎していたのが信州諏訪に落ちて生んだ男児を諏訪十郎正信といい、延元3年足利家に属して義詮より三重郡の四郷を賜い中島村により楠と号した。応永3年2月卒(小川重太郎稿)。
楠山城主2代目。応永3年(1396)父貞信死去によりこれを継ぐ。
応永6年10月、命により北畠旗下に属して堺浦合戦に加わる(応永の乱)。乱後京にとどまり、武衛屡士となり足利義持に仕えた。
淳光院殿梅月清心大居士
楠山城主3代目。貞益の舎弟。応永の乱(1399)に参戦した舎兄が京にとどまり帰城しなかったため楠山城を次ぐ。
応永19年(1412)、兄のもとに上京したが、そのままとどまり帰城することがなかったので、北畠満雅はこれを除封して、楠正成の玄孫正威を城主4代目とした。貞則はこの除封に懊悩の末応永21年6月8日自害。兄貞益により今日と黒谷に建墓。
龍泉院殿大演浄清大居士
延文2年(1357)信濃より来たり、楠木城主となって楠木四郷を治めた諏訪十郎正徳の孫庄三郎が赤須賀城主となり北畠氏寄騎(与力)となった。
| 諏訪十郎 水谷庄三郎 ○楠正信━━某━━正長・・・・・正吉━━楠木正光━┳水谷正徳 ┗楠木長三郎 |
水谷 正長 庄三郎 諏訪十郎正信(〜1396)の孫。桑名赤須賀に居城(桑名市郡城址考)
水谷 正吉 長左衛門
正長の後。弘治永禄のころ(1555〜1569)赤須賀に居城。元亀2年(1571)織田氏に降り幕下となる(桑名市郡城址考)。
水谷 十平
楠木 正光 長左衛門
長吉の子。本姓に復す。慶長19年(1614)大阪冬の陣に本多美濃守忠政に従い軍功あり、子孫松平隠岐守・松平越中守等に仕える(桑名市郡城址考)。
楠木 某 十平 御馬廻(桑名藩老吉村組着到付、桑名市郡城址考)。
楠木 新太郎
水谷 正信(正徳とも) 長左衛門
正光の子、松平氏宝永移封の時、桑名に残り郷士となり、帯刀免許、明治に至る(桑名市郡城址考)。
楠木 某 長左衛門 慶安(1648〜52)定綱侯代御徒士(桑名藩分限帳、桑名市郡城址考)。
楠木 某 長三郎
正光三男、松平氏宝永移封の時、高田に従う。子孫高田に二家残り、共に楠木と称し、一は寺院の住職、一は農家(桑名市郡城址考)。