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南部氏

 富田城主。紋は鶴丸・藤丸。「十ヶ所人数の内」
新羅三郎の後裔。元信州松本に居住。文安3年(1446)、頼村が孫の頼武と共に来国、富田地頭仲原肥前守の跡の城主となるという。一方延文2年(1357)南冨田御厨の地頭南部が見えており(新四日市市史)、代官など置いてたものと見られる。
 文中元年(1372)3月大矢知城の南部左京亮頼勝が北畠顕信に叛き、仁木義長に与力したという(北畠暦記)。南部氏の鎮守は旧土御前神社。

 南部忠嗣の時冨田蓮光寺開基となる(系図纂要)。兼綱の兄弟甲斐守の末裔は薦野藩士となり、また一は熱田宮の本陣を経営した(桑名志)。主膳正は神戸方従騎、久内、久左衛門、与太夫は滝御所に仕える(三重国盗り物語)。南部越後守の後に尾張藩士がある(士林泝)
大矢知城南部近江守はその分家 

 峯城家老の大久保氏は本姓南部氏、先祖は関東のものという(池田家家臣譜)。宇留田城にも大久保氏あり。冨田城主との関連は未詳。

南部光行━━實光━*(数代欠?)*━時實━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛       
┣政光(盛岡城主祖)                
  
┣實政━━實継━━長継━━宗継━━行直━○
頼村茂福掃部介  
修理大夫   主膳正    駿河守    甲斐守      │治部少輔
┗○
頼村━━┳頼宗━━━頼武━━┳頼連━━━━╋兼綱━━┓
         ┃             ┃└
安藤季重┃      ┃
         ┗継直          ┃└
矢部主繁┣兼資   ┃
                        ┣覚助      ┣(兼治)  ┃
                        ┗女       ┗女     ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   
邦尚━━━兼治━━┳忠嗣(蓮光寺開基)
┃             ┣忠明
┃             ┗朝邦(兼勝)
下総━━┳安右衛門 ━┳九郎━━━重之━━━重共━━━重行━━━平次
九兵衛  ┗女 │   ┃      ┏太兵衛━━━女    ┏女
┃    ┌─┘ │   ┣光忠━━╋宗武━━┳宗純━━╋
午之助(断)
瀧川忠征━━━女   ┣女    ┣光政↓  ┗女     ┗女
┃│            ┃      ┣女        
┣女            ┃      ┣
宗兵衛━━━森島市右衛門  
┃              ┃      ┣
九兵衛
┃              ┃      ┗女
┗兼治━━兼持━┳某 ┣
九郎兵衛━━太郎右衛門 
            ┣某 ┗女      ┏
新五左衛門(代々本陣職)
        
赤本陣┗光則──光政━┻森太左衛門
越後守━━八郎左衛門━━権左衛門尾張藩鷹匠)   
系図纂要 桑名志、南部系図(海蔵小誌)、尾張群書系図、名古屋市史ほか

※政光(文安元嗣)と頼村(文安3遷冨田城)は同時期の人物であるので「系図纂要」實継〜行直の後に頼村が来るのは衍文でありそうで、頼村は政光・實政の兄弟であろう

南部 某

 南冨田御厨の地頭、延文2年(1357)外宮禰宜度会貞香によって南富田御厨を乱妨したと訴えられた(新四日市市史)。本拠は信州にあって富田には代官(仲原氏?)を置いたものか。

南部 頼勝、左京亮

文中元年(1372)3月大矢知城の南部左京亮頼勝が叛き、仁木義長に与力したので、北畠顕信は朝倉・見永七朗らに大矢知城を攻めさせたが破れ、茂福城に篭城。国司は大宮入道親子に2000余騎の兵を送りこれを討つ(北畠暦記)。 

南部 頼村、修理大夫(〜1451)

 新羅三郎の末裔。信州松本の人。文安3年(1446)、孫の頼武と共に来国、富田地頭仲原肥前守の跡の城主となる。(桑名志)
 宝徳3年(1451)12月11日卒。花光院殿動笑秀然大居士(南部系図)。花光院顕譽秀然(系図纂要)。

南部 頼宗、主膳正(〜1459)

信州松本の人。頼村の子。この人信州に残る(桑名志)。
長禄3年2月22日卒、無量院殿了譽秀令大居士(海蔵小誌南部系図)。無量院了譽秀岳(系図纂要)

南部 頼武、治部大夫、駿河守(〜1501)

 富田城主、祖父頼村とともに信州より来村。富田地頭仲原肥前守の跡の城主となる。
明應元年(1501)5月18日卒(桑名志)。清浄院学応了玄(系図纂要)
南部 頼武 駿河守 権太夫 徳石院殿慶應了玄大居士(海蔵小誌南部系図)。

南部 頼連、甲斐守(〜1522)

天文14年()9月吉日半鐘・鰐口各一を富田山長興寺に寄進(尾張群書系図
頼武の子。大永2年7月21日卒、法性院眞如良心(系図纂要)
大永2年7月10日卒、高花院殿真如良公大禅定門(海蔵小誌南部系図、小異あり)。
妻に安藤季重女(塵埃)・矢部主繁女あり。

南部 某

永正元年(1504)益田荘の年貢を抑留したという(四日市市史)

南部 某 譽助

 頼武子。蜜厳院別当(海蔵小誌南部系図)。
覚助 密厳院別当(尾張群書系図

南部 兼綱、治部大輔(〜1569)

 富田城主、永録12年(1569)5月12日、木造を攻め討死。(桑名志) 
南部 兼綱、治部少輔
 頼連の子。母は桑名三崎城主矢部右馬介(允か?)の女。永禄12年木造家謀反のとき、国司北畠具教に属して森本飛騨守・茂福盈盛らと大将として三千騎を従え木造城を攻めたが、城内よりうってでた柘植三郎と交戦して討ち死にした。長源院殿夏山一峯大居士(海蔵小誌)
南部 兼綱、治部少輔
 
国司北畠具教に属す。永禄12年木造具政の居城を攻撃中に討死(尾張群書系図)(尾張群書系図
南部 某、治部少輔(〜1574)
 富田東か西かの城主。天正2年(1574)、信長公長島一揆退治の節、幕下に属し軍忠に討死。子息は幼少で家を次がずに出家した。(旧城跡付)
南部 某、治部少輔  茂福掃部介の弟という。木造具政が信長に寝返った時、北畠軍大将のひとり(伊勢輯雑記、下笠田項 

南部 某、甲斐守

富田東の城城主。兼綱の兄弟。子孫に宮本陣南部新五左衛門あり。(桑名志所引村由緒)

南部 邦尚、左京亮(〜1607) 

 兼綱の子、慶長12.9.15死、住乗院大円秀鏡。
南部 邦尚、左馬之助
 住樂院殿大円秀鏡大居士「海蔵小誌南部系図」

瀧川 忠征妻  兼綱の子下総守の子

南部 兼資 久左衛門

 「海蔵小誌」に邦尚の子として見える(「系図纂要」に見えず)
南部 某、久左衛門
 天正11年(1583)ころの「織田信雄分限帳」に員弁郡治田郷に267貫文を知行。

南部 某、駿河守

富田南の城城主。兼綱の兄弟。(桑名志所引村由緒)

南部 某、武右衛門

天正11年(1583)ころの「織田信雄分限帳」に員弁郡治田郷に200貫文を知行

南部 頼勝 左京亮  朝明郡大矢知城主(諸氏禄)

南部 某 遠江守
大矢知  
大矢知城主。南部の族。信長の伊勢平定後は柴田勝家に仕えた

南部 兼綱系(蓮光寺祖)  

系図纂要と海蔵小誌南部系図の記事に出入りあり

南部 兼治、甲斐守(〜1607) 邦尚の子、父に先立ち慶長12.5.16死(系図纂要)
南部 兼治、傳兵衛 (〜1650)富田蓮光寺へ入院す、慶安3年5月16日寂、源休院真光覚夢法師(海蔵小誌南部系図)

南部 忠嗣、忠次、甲斐守(1615)
 兼治の長男、僧眞光。寛永6年(1629)蓮光寺初代開基となる。「蓮光寺」もとは社家という(富田要記)。元和元.8.23死。分達上人(系図纂要)。

南部 忠明、甚八郎(〜1600)
 兼治の次男、慶長5.6.20死。厚源院北庵上人(系図纂要)

南部 朝邦、甚左衛門(〜1609) 尾州横須賀(愛知県東海市)の住人。慶長14.正.18死。大機自休(系図纂要)
南部 兼勝、朝邦、甚右衛門 富田六郷代官、右桑名へ移転す。玄用院殿大機自休大居士(海蔵小誌南部系図)

南部 駿河守系(薦野藩士、熱田宮本陣)

 
兼綱邦尚━━兼治━━━朝邦(兼勝)
┃     ┣
下総━┳安右衛門 ━┳九郎━━重之━━重共━━重行━━平次 
┃     ┣
九兵衛┗女 │   ┣光忠━┳太兵衛━━女
┃     ┃     │  │   ┃     ┣宗武━┳宗純━┳女
┣兼資  ┃
 瀧川忠征━━女  ┣女   ┣光政↓┗女   ┣午之助(断)
┃     ┃ │          ┃     ┣女         ┗女
┃     ┣━女         ┃     ┣
宗兵衛━━森島市右衛門  
┃     ┃            ┃     ┣
九兵衛
┃     ┃            ┃     ┗女
┣(兼治)┗兼治━兼持┳某  ┣
九郎兵衛太郎右衛門 
一説兼綱子       ┣某  ┗女
┗女            ┗━光則───光政━┳
新五左衛門(代々本陣職)
                
赤本陣          ┗森太左衛門
系図纂要 桑名志、南部系図(海蔵小誌)、尾張群書系図、名古屋市史ほか

「南部屋敷」 南部氏の居館。森村(菰野町神森字森)の村中、春日神社の東側畑地。往時は堀、土居、石橋などを備えていたという(菰野歴史こぼれ話、第256回)

南部 某、新左衛門
 新五左衛門の兄。森村に居住。春日神社や賀保寺の再建普請にて多く寄進(菰野歴史こぼれ話、第256回)。
 信長の兵火のため焼失した嘉保寺(賀宝寺)を寛永11年(1634)願主となって再建した(菰野町史)
南部 某、市兵衛
 
新五左衛門の別家。南部氏系図を所伝という(桑名志)、朝明郡某村で代々名主。その後医家となる(菰野歴史こぼれ話、第256回)。
南部 孝一
 市兵衛の末孫。日露戦争時の従軍医。帰国後東京に病院を開業。 

南部 某、新五左衛門
 兼綱の兄弟駿河守の後裔。宮本陣の人(桑名志所引村由緒)。このひと生国大和国、もと佐々木梅心の小姓(梅心は信雄分限帳に富田郷に170貫文知行、六角義賢)。その後土方雄氏に仕えて、朝明郡森村にて400石知行、雄高公時代の薦野藩年寄。土方縫殿介(伊兵衛)を養子として家督を譲り、一族の南部安右衛門の招きで尾州熱田へ逼塞する。熱田の子孫は宮駅の本陣を経営し(菰野町史)、代々つづいて赤本陣と呼ばれた(本陣文書は名古屋市博物館に委託)。

南部 某 伊兵衛
 新五左衛門の養子。実は土方縫殿介(薦野藩主の系)。

南部 某、安右衛門
 尾張藩士。尾州宮の住人。薦野藩の新五右衛門を招いた人(菰野歴史こぼれ話、第256回)。

 


南部氏 桑名藩士

━━

喜八郎━━孫三郎━━万右衛門──喜八郎──万右衛門━━孫三郎━━松之助
本の籬ほか

 


紋丸に南文字
南部氏 尾張藩士

家祖は勢州朝明郡富田城主という

南部越後守━━━八郎左衛門━━━権左衛門━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣光氏━━┳文太夫━━━┳光廣━━━━┳彌五八
┣角兵衛  ┗文之右衛門  ┣儀左衛門   ┗
布施喜左衛門妻
┣七蔵━━━恒右衛門   ┣
三浦次郎右衛門妻 
┣光近             ┗
国府神社野々部左門妻 
雨宮次郎左衛門妻     
士林泝

南部 某、彌五八、八郎左衛門

 勢州朝明郡富田城主南部越後守(不詳)の子。はじめ信長に仕え、のちに秀吉・秀頼に仕えて江州鯰江村に350石を領した。大阪落城の後家康より攝州富田に召し出され御鷹部屋預かりとなり、台命により八郎左衛門と改名。

 


南部氏 尾張藩士

家祖は勢州朝明郡富田城主という

 

 

○越後守━━八郎左衛門━━権左衛門━┳光氏━━┳文大夫━━━┳光昌
                          ┣角兵衛  ┣分之右衛門  ┗女
                          ┃      ┣女
                          ┃      ┗女
                          ┣七藏━━恒右衛門
                          ┣光近
                          ┗女
 
士林泝

 

南部氏 池田藩士(大久保氏)

家祖は大久保城主。閏田城の大久保氏との関連は未詳。

南部伊豆守━┳団覚兵衛(断)
          ┗権大夫━━━次郎右衛門
(池田藩士)   
池田家家臣譜
大久保伊豆━━南部長右衛門━━次郎右衛門━━半左衛門━━次郎右衛門━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗常諄━━次郎右衛門━━常久━━長喜━━陽三郎

祖:曾祖父・大久保伊豆.祖父・南部長右衛門.父・南部次郎右衛門.書上:南部七之助.南部半左衛門(七之助を改名).南部次郎右衛門.南部甚吉常諄.南部半蔵常諄.南部次郎右衛門常諄.南部次郎右衛門(南部半左衛門を改名).南部半左衛門常久.南部半蔵.南部長右衛門(半蔵を改名.さらに南部と改名).南部.<南部次郎蔵>;
池田家文書

大久保 某、伊豆守

 大久保城主。峯城の家老、信孝の配下にあり、天正11年信孝と秀吉の戦いには峯城に篭ったが、落城後岐阜の信孝のもとに赴いて同所において討死。大久保も落城した。(鈴鹿市史)

南部 某、伊豆
 本国伊勢、大久保というところに少しの構えをして仕り住宅としていたが、信長に御礼申さず浪人、あい果てるとの伝聞。先祖は関東のものという。(池田家家臣譜)

大久保 某、団覚兵衛

廃城後、京極若狭守に1000石で仕えたが断絶。(鈴鹿市史)

南部 某、権大夫

 伊豆守二男。池田勝入に1500石で仕えた。(鈴鹿市史)

南部 某、長右衛門(〜1617)
 伊豆守男。本国伊勢大久保。浪人後岐阜中納言(織田秀信)に奉公、岐阜落去の折には鑓傷をおった。その後九鬼長門守(盛隆)に仕えた後、池田輝政播州入り3年目(1602年)の春300石にて奉公。因州国替え(1616年)の後は八上郡船岡村に居住して翌年3月5日果てる(池田家家臣譜)

南部 某、次郎右衛門(1605〜)

 岡山藩士。南部長右衛門男。跡目300石相続。元和4年(1618)11月26日、14歳にて元服御礼。たびたび江戸詰。
 寛文9年時点で64歳。高500石。鉄砲頭。(池田家家臣譜)

 

四十八家(TOP)


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