楠・楠木氏

楠城主
 南朝立役者楠正成の玄孫正威が楠山城主4代目となったが、当時なお燻りつづけていた南北朝問題で、正威は朝廷で狼藉をおこない討死したため、楠城は長兄で村正の弟子村重の孫の預りとなった。預り44年目に正威の孫の正充を養子とし、城主の系が復帰した。
 6代目正忠のとき信長の配下となるも、7代正具はこれに抵抗し石山合戦で亡くなった。正具が石山に落ちた後信長の命により村田庄三郎の子正盛が若年で城主となるが、天正12年5月美濃国加賀之井城に虜となり、16歳で秀吉に害せられ断絶。 
 「旧城跡附」には楠本郷に楠十郎、攝津守、主水佐をあげている。

 員弁郡の治田城中山城東村城はそれぞれ城主を楠氏、治田氏と称している。
 伊勢名勝志の楠十郎墓(本郷村正覚寺)は諏訪十郎のこと。
 神戸住人に信長の右筆大饗(楠)正虎がある。

 桑名郡古野城主に楠正宗がある。同家の末裔梶川傳右衛門は員弁郡楠新田を開いた。

 正具の晩年に石山で生まれた正実は外祖小西長正が養育。その後御師朝田家の養子となった。
 四十八家の一木俣家は楠正富を祖として、神戸与力であったが、三河に移り家康に仕えたのち、井伊家に与えられて彦根藩家老となった。
 桑名赤須賀住人水谷長左衛門正吉の先代は三重郡楠城主楠木氏という(桑名人物事典)

 南大社を開発した清水家は、楠正成が討死の後その子孫が紀州鴬の森近くの島清水(海南市冷水浦)に落ち延びたもの。その後藤兵衛重正の長男伝右衛門正信は慶長5年(1600)大阪で討死し、弟藤太夫はこれより先信長と本願寺が抗争している頃、北大社に移住、南大社を開発して代々の庄屋となった。昭和の中ごろの当主は清水成美成之(三重県社会教育部長)、支系に伝之助━遼平(大長郵便局長)、ほかに一色氏を継いだ正芳(清水藤左衛門正親の八男、百日算正芳流祖)がある。(藤原史話) 

楠正成━┳正行━┳池田教正     住勢州神戸     
        ┣正時 ┗
正綱━━正倶━━正隆━━正理       
        ┗
正儀━━正勝━━正真━━正秀━┓  
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃                    
   楠右馬助  楠二郎    
正盛━━盛信━┳盛宗━━盛秀━━長成━━隆成━━正虎住勢州神戸 
          ┃楠五郎 楠多門住丹波 楠十郎 楢村七郎 梶川      
大饗        ┗正高━━正明━━正親━━正頼━━正治━━正信━
正平━━朝成━━政高━━正直━━成晴━━正光━━正俊━━正長━


正繁━━正相━━正武
     ┏正作━━是政
     ┣正義━━正隆
     ┃賀取四郎兵衛妻
     ┃   ┏賀取一郎
正包━┻━┻賀取勘兵衛
大饗正虎━━玄正
系図纂要他
楠正成━━正儀━━正勝━┓
┏━━━━━━━━━━━━┛ 
平尾楠木 ┏正重━┳正重━┳正重
正顕━┫     ┣女子 ┃城代 川俟
┣正尭 ┃     ┗女子 ┗正眞━
正秀  ┣正理━━女子       
(大饗祖┃           ┏正澄 
┣正光 ┃
楠城主4代 木全   ┃5代  
┗正親  ┗
正威━┳正富━┻正充
            ┣女子
      
            ┗正資━某
(木俟祖)

┏正重 
┻正徳 
┏正眞    ┏政統
┻正盛    ┣正頼━━━━正依
┏正統━━┻正胤     ┏女子
┣女千種某養女         ┣女子━━盛信↓
┣正利 原文のママ 7    ┃8代 
正忠━(中略)━正具━╋盛信(絶)
 6代              ┣朝田正実
                ┗一角正治       
全休庵楠系図他
            富田某────時春━━━━宗定━━━宗吉━━━宗勝━━┳某      
                        │      │                  ┗宗武
   後藤妥女守━━━┳五郎兵衛━━女   ┏━女
               ┗時春↑         ┣━朝田彦大夫正實
 ┳十郎左衛門貞孝━┳七郎左衛門正具━━╂─十郎 
盛信(絶)
 ┃
6代     │   ┃7代      │   ┃  8代     │
 ┃
盛実━━女   ┃神戸具盛━━女   ┃滝川豊前守━女
 ┃            ┃              ┣━━女
 ┗楠平尾土佐守   ┃             ┗━某 │
              ┗楠正三郎正邦━━━正三郎盛邦━━盛信↑ 
婚姻関係(楠町史他)

楠 易孝、諏訪十郎

 楠城主。一説に楠正成異腹の子孫諏訪十郎正信が信州より来国とも、国司北畠氏の末裔ともいう。(伊勢名勝志)
諏訪 正信 十郎(〜1396
 正成異腹の子、延文3年(1358)信州より来たり三重郡四郷を領して中島村に住した(桑名市郡城址考)。

楠 正威、三郎丸、右衛門三郎(1407〜1443)

楠城主4代。正成の玄孫。応永6年(1399)堺浦合戦に破れて翌年なくなった正勝の子正顕ら一族は北畠顕泰のはからいで勢州鈴鹿郡鹿伏兔に落ち延びた。その三男三郎丸が国司の命により楠城主となり、幼少のため父正顕が代官となった。
正長元年(1428)に端を発した後亀山法皇小倉宮と北畠満雅との抗争に伯父正秀と共に参戦して、嘉吉3年(1443)、正威は禁裏に神璽・宝剣を奪い、比叡山に逃れたが、9月25日同中堂で討死した。36歳
俊仙院冷岩浄顕大居士

楠木 正重(二代目)、兵庫助(1426〜1488)
楠木 正重(三代目)、川左近太郎(1448〜1525)

楠城代。楠正威の長兄は伊勢村正に入門。刀剣家伊勢正重を称した。楠城主正威が討死したため国司の命によって二代目、引き続き三代目が城代(1443〜1486)となった。

楠 正充、川次郎左衛門(1476〜1527)

楠城主5代。正威の孫。正威の討死に後、嫡子正富はその追及を逃れるため神戸村に移り、木全庄五郎と称して神戸家与力となった。その子正充の時、川家に楠城代を次ぐ者が途切れたため、川家猶子に入り文明18年(1486)10月18日、北畠正郷の命により城主となった。
明応2年(1493)正月元服。天文2年8月22日没。51歳
白山院殿白山厳歓光大居士
妻沢田悪右衛門尉景盛女。

楠 某 半蔵  明応5年(1496)、長野氏と講和のため峯廣成の女を嫁とする(伊勢峯軍記)。この人楠系図に見えず

 貞孝、正忠、忠盛、
楠十郎左衛門、号西蓮院実浄(1497〜1574)    

楠城主6代。正統の子。神戸具盛に仕える。
弘治4年(1557)2月、江州観音寺山城主佐々木入道により貞孝の諱を称した。
永録2年(1559)先祖朝敵御免となり六角家より橘復姓御達示、これより楠十郎左衛門を称す。
元亀2年(1571)9月老年により隠居。関の実弟楠平尾土佐守に預けられ西蓮院実浄と号し、天正2年病死。(楠正具精説)一に年77歳
妻は勢州亀山平盛実女 

一に永禄11年(1568)2月織田信長と戦い敗績して降る(北畠物語に永録10年8月に作る)。

楠 某、兵部大輔
楠城主。山科言継卿記天文22年(1553)11月24日に楠兵部大輔。言継の子鶴松を養子に所望するが翌年3月19日破談となる。弘治2年(1556)9月、山科言継、八風越にて来国、楠兵部大輔城に入る。

楠 正具、七郎左衛門尉、号正覚(1515〜1576)

 楠城主7代。八田城主。北畠具教に仕え、勢州多芸大河内御所に住まう。永録4年(1561)、八田城主を命ぜられ尾州の押さえとなる。
 永録12年(1569)、信長大河内城責めのとき、八田城より信長陣を夜討ちして功あり、その後北畠氏信長と和睦にいたり石山本願寺へ落ちる(絵本太閤記)。同年攝州西成郡天満本願寺に薙髪、顕如上人法弟となる。
 天正4年石山本願寺一揆として信長に征伐され5月7日討死。
妻神戸具盛女

大安町久下の持光寺には楠七郎左衛門・下間與四郎連名の状、元亀元年9月7日、大阪石山の本願寺より信長来襲に対して、長島願證寺の門徒に来援を求めた古文書があった(員弁郡郷土史料)

楠 貞孝、正盛、盛信、十郎(1569〜1584)

楠城主7代。一に易孝六代の孫。養子。実は庄三郎盛邦の子。母は正具の二女。
永録12年誕生。正具に嗣子がなかったため養子とする。祖父忠盛がすでに隠居のため正三郎が後見となった。

のち信雄に属す。信雄秀吉と交戦のとき尾張戸田城にあったが、天正10年(1582)3月秀吉の攻めるところとなり討死。あるいは天正12年5月美濃国加賀之井城に虜となり秀吉に害せられるという(伊勢名勝志)。
妻は瀧河豊前守

楠 藤六  楠一党。弘治2年(1556)9月、山科言継卿記に見える。

楠 左馬助  楠一党。弘治2年(1556)9月、山科言継卿記に見える。

楠 右衛門尉  楠一党。左馬助の子。弘治2年(1556)9月、山科言継卿記に見える。

楠 正邦 正三郎  楠正忠を預かる(楠町史)

楠 某、土佐守
 橘氏、鈴鹿郡楠平尾城主、子孫前田家中にあり。(三重国盗り物語)関の実弟。隠居した楠正忠を預かる。

○楠正宗━(末孫)━梶川某━━┳清右衛門
                     ┗
傳右衛門・・・・・水谷昭夫       

 

 

○楠正秀━正盛━盛信━大饗盛宗━盛秀━長成━成隆━正虎

大饗 正虎 楠 長諳、式部卿法印、河内守(くすのき ちょうあん) 1520〜1596

永正17年備前国生まれ、『梶川系図』では伊勢国神戸に住み、楠木氏の流れを汲むという。(国史大事典)

前名は大饗(おおあえ)長左右衛門尉正虎で河内守、式部卿法印を称す。もと松永久秀の右筆として知られ、祖の楠木正成が朝敵だったことから、その赦免を正親町天皇に願い出て許された。後に信長・秀吉にも右筆として仕えた。

世尊寺流の一流書家。はじめ足利義輝・松永久秀に仕えたが、永禄末頃から信長に転仕する。右筆として本願寺宛起請文など重要文書の発給に携わる一方、側近として使者の応対や部将の督励といった役割にも任じた。本能寺後は秀吉に仕えて引き続き右筆を務める。なお長諳は楠木正成の子孫を称しており、朝廷へ正成らの赦免を願い出て許されたほか、みずからも正成の任じた河内守に叙任されている。

楠木正虎(楠長諳) 人物
 くすのき まさとら (くすのき ちょうあん) 1520〜96.1.11

 通称甚四郎、長左衛門尉。楠長諳は号。式部卿法院。成隆の子。
 飯尾常房(1422〜85 書家)に学び、世尊寺流、当代一流の書家で、織田信長・豊臣秀吉の右筆を勤めた。
 正儀の孫、大饗(おおあえ)正盛の裔と称する備前国生まれの大饗甚四郎は1536年(天文五)足利義輝(十三代将軍)に仕え、正虎と改名した。松永久秀(1510〜1577.10.10)の働きかけで正親町天皇(おおぎまちてんのう)から勅免を受け、朝敵とされていた楠木氏の名誉を回復し、従四位下、河内守を任じられた。
 松永久秀が没落した1574年(天正二)頃から織田信長に仕え、以後多くの書状を代筆している。
 本能寺の変が起こった時、長諳は京都にいたが、他の近習と違い本能寺に駆けつけなかったので命を長らえ、いち早く秀吉に近づいている。
 秀吉の九州攻めの紀行文『九州陣道の記』を著し、1592年(文禄元)朝鮮派兵に際して肥前名護屋城に先発して記帳などにあたった。
 
 正虎が本当に正儀の子孫かどうかの確証はないのだが、当時朝敵であった楠木氏を名乗る理由が見あたらないし、逆に危険すらあった為、本当だったのではないかと考えられる。然し、穿って見れば由比正雪の如く『太平記』を読んで感銘を受けた為に、危険を承知で名乗ったとも考えられる。
 事実関係の当否は別として、正虎の尽力で楠木氏が勅免を受けて以来、多くの「楠木氏の後裔」が現れた。朝敵とされていても、皆が楠木氏に寄せる想いは強かった様だ

 

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