近藤・江間氏
白瀬・
飛那井・日内

紋亀甲に七曜(桑名志)。
白瀬城主。
白瀬氏は伊勢平氏平維茂の後という(諸士禄)が、近藤氏との関係は不詳。北畠氏の家臣

子孫は深谷部の江間氏と、本郷に近藤氏がある。深谷部の北迫城主近藤氏は同祖。

 家臣に羽場惣右衛門尉近藤清左衛門がある。羽場氏は白瀬落城の後阿下喜に移り住み、阿下喜城主片山範者の女を娶り村総代となった(三重國盗り物語)。
古田城主はその族という(伊勢名勝志) 

 西野尻には鎌倉時代には白瀬庄司家があったが関係は未詳。

 近藤氏は藤原秀郷の孫で脩行の時近江掾となり近藤を称した。國平の時讃岐介となり、國親(1308〜1359)の時南朝に功あり伊予國宇摩郡9000貫を知行弾正左衛門に任ぜられる。これより代々東伊予に采地を増やす。
 7代目吉國のとき兄國重と不快のことあり勘気を蒙り、浪人のはて永正3年(1506)伊勢國司北畠政具に仕え、剣道指南となる。北勢不穏のためその息國吉・國房が本郷に派遣された。
 國平の男重國の末は北畠氏に仕えて深谷部北迫郷を賜い城主となった
(藤原史話)

 これとは別に「毫埃」では、重國を同祖として乗國のとき北畠に仕え、その孫家高が深谷部の祖となり、その兄家久の後が員弁の近藤氏となっている。吉政の子孫が深谷部を頼って移住していることから、より血脈の近い「毫埃」系図が信を伝えているように思われる。

 本郷の近藤氏の菩提所は長尾山福林寺(今の東泉寺)であるが、國継の本郷入郷より以前に脩行の曾孫景頼が建武の軍功により白瀬庄を得て当寺を開いたものという(藤原史話)。

藤原秀郷━千常━公脩━文行┓
┏━━━━━━━━━━━━━┛
┗○進藤脩行━━━━島田景親━━景重━━國隆━━國平━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   
仕北畠氏
┣━
重國━━重政━━政晴━━晴定━━晴義━━國治━━定國━━乗國━━家國┓┗━重成                                               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣家久━┳久吉━━吉勝━━吉秀━
┳吉綱━━吉政   
┃     ┣久清             
┗吉次
住北迫郷 ┗女 伊藤民部室
┗家高━━政家━━家信━━家正━━家教━━家清
毫埃
藤原秀郷━千常━文脩━文行┓               福林寺祖
┏━━━━━━━━━━━━━┛┏・・・・景頼━━景資━━俊海━━女
○近藤脩行━━行景━━景親━┻景重━━國澄━━國平━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣━國基━━國政━━國頼━━國光━━國広━━國秀━○國親━━國隆━━國吉┓
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┗國秋━━國宗━━國景━┳國重━━國家
(伊予)    江間
┣━
重國深谷部祖)      ┗吉國━┳國綱━┳吉綱━┳吉政
┗━重成                   ┗國房  ┣義晃  ┗女
                               
┗吉次本郷祖・・・・義勝━━義次
藤原史話

先・近藤(仮・福林寺系)

 「福林寺系図」に行景、景親(〜1346)、景頼(〜1430)、景資(〜1470)、俊海(〜1463)、女子(〜1469)と見える(藤原史話)が、景頼以前は数代略されているようであり、また行景、景親も脩行の子孫とすると時代が合わない。

近藤 景頼 弾正左衛門

 島田駿河守景親の子。建武の軍功で従五位下に任じ、応永2年(1359)3月、白瀬庄本郷中森山に新城を築城、弾正左衛門と改め長尾山に住した。福林寺開祖。永享2年(〜1430)3月20日没(もう一代あるか?、藤原史話)。

近藤 景資(1406〜1470) 太郎左衛門尉

 景頼の子。文明2年4月18日化。年64.戒心院譽行居士。室中村彦左衛門常方女(藤原史話)

近藤 俊海(〜1463) 謂治郎兵衛  景資の子。出家して天台に入る。寛正4年6月5日化。浄行院俊海大僧都 

長森宗左衛門尉方内室(〜1469)  俊海の女。文明元年12月23日化、年67。方号清心院貞章信女。

后・近藤(仮)

近藤 吉國 

伊予の國親(秀郷8代孫)の子孫。兄國重と不快のことあり勘気を蒙り、浪人のはて永正3年(1506)3月5日伊勢國司北畠政具に仕え、剣道指南となる。同6年(1509)正月20日御剣番仰せ付けられる。北勢不穏のためその息國吉・國房が本郷に派遣された。

近藤 國継 弾正左衛門尉

吉國の子。御剣番相続。。享録2年(1529)2月、國司北畠材親の命により、北勢鎮圧のため、本郷中森山に陣を定め近隣諸城を攻略した。同年3月13日先に近藤景頼築城の白瀬城を修築して北防を固めた。(藤原史話)

近藤 吉綱(〜1561) 弾正左衛門尉

 國継の子。白瀬城を相続。永録4年(1561)4月25日夜治田山城守の不意打ちに一族と討死(藤原史話)。
近藤 吉綱、弾正左衛門、釈道休
 
白瀬城主。永禄5年(1562)、治田山城守に攻められ討死。白瀬城は治田勢に火をかけられ落城する。藤原町史所引「治田村史」には永禄4年4月25日という。
「古城主近藤弾正左衛門道休」石碑は近末墓地にある。また古城址には大正年間弾正左衛門の石碑が建てられた。(藤原町史)
飛那井 某、弾正
 天文13年(1544)10月晦日、(金井城主)多熊村兵部少輔に連歌師宗牧の一泊を申し付けられ、坂口まで迎えに出る(東國紀行)。飛那井は「日内」郷の音写で飛那井弾正とは近藤弾正左衛門吉綱であるとみられる。

近藤 吉政 勘解由左衛門

 吉綱の子。桑名郡深谷阿弥陀寺に住いのち江間氏となる(藤原史話)。
近藤 某、勘解由左衛門
 吉綱の嫡子。永録4年4月25日夜、治田山城守の急襲の時、夜陰に乗じて落ち延び、京都泉涌寺に隠棲。
 泉涌寺は京都市東山にある皇室の菩提寺、御寺(みてら)と呼ばれている。
天長年間(830年頃)弘法大師が開基、建保6年(1218年)月輪大師が宋の法式を取り入れ大伽藍とし、その時境内から清水が湧き出たことから泉涌寺と号した。
 ここに3年ほど漂泊の後、泉涌寺末の桑名深谷部村の阿弥陀寺を頼り奥条というところに住した。江間家より養子を取り江間姓を称した。(治田村誌)

近藤 吉次 清左衛門

吉綱の子。城主家宰。清左衛門は永録4年の難を免れ再興を図った。本郷近藤一族の祖という。(藤原史話)

近藤 某、駿河

本郷城主(桑名志)

古田・近藤(仮)

近藤 國房 三郎兵衛   白瀬の近藤國継の弟。古田城を固める(藤原史話)

近藤 國房 國継の弟、享録2年(1529)古田に陣を置く。(三重國盗り物語)

近藤 義晃(〜1561) 治郎  

白瀬の近藤吉綱の弟、永録4年4月25日夜、白瀬城にて討死。古田庄屋の祖(藤原史話)

本郷・近藤

 武左衛門庄屋の系は大正6年半十郎の時に絶えた。

               ┏武太夫━━武助━━半治━━武十郎━━半十郎 
               ┗━━━━━━━━━━━━━┓       (大正6年絶)
○近藤吉次・・・・八治郎━━義勝━┳義次━┳武左衛門┛
                      ┗女   ┣瀬左衛門(傳兵衛庄屋、傳治祖)   
           ┳本光寺安明    │    ┣清兵衛(泰治・泰造、武男祖)     
           ┗奥岡平四郎━━嘉兵衛 ┣権左衛門(善五郎、信太郎祖)    
                            ┗女                     
藤原史話

近藤 義勝(〜1746) 清兵衛  桑名藩士(藤原史話)

近藤 義次(〜1778) 庄兵衛  義勝の子

近藤 杢の系

○瀬左衛門・・・・傳兵衛━┳某               ┏保一  ┏実
                ┗清助━━杢兵衛──某━╋杢━━┻春雄
                                  ┣久太郎
                                 ┣太郎
                                 ┣治郎(清水氏)
                                 ┣保一
                                 ┣昇
                                 ┗芳雄
藤原史話

近藤 杢(1884〜1965)

 本郷村(現いなべ市藤原町)生。幼少圓琳寺赤心塾梅田春濤に学び、成績が優れたため塾頭として師範代となる。小学校・中学校の教師歴任、富田中学(元四日市高校)では作家の丹羽文雄の作文指導に当たったという。その後大東文化学院へ入学して漢学を専攻する。卒業後同校教授、のち神宮皇學館教授となった。このころ書庫に入り浸り漢籍を渉猟して『支那學藝大辭彙』を著した。
 皇學館退官後は郷里にあって郷土史の著述に精魂を傾けた。
 著録は漢学の『支那學藝大辭彙』のほか続編『中国学芸大辞典続編』、『日本漢学大辞典』、『中国俗文学史』、郷土史では『桑名市史』、『治田村史』、『菰野町史』、『員弁郡略史』、『員弁の伝説』、『桑名の伝説と昔話』、没後刊に『員弁史話』、未刊に『大長村史』など。

近藤 実 杢の長男  

近藤 春雄(1914〜) 杢の次男。父の衣鉢を受け漢文学を専攻。『中国学芸大辞典』を改定。