
木俣・木全・木俟氏
四十八家の一。桑名郡木俣家(勢州軍記)、桑名郡俣木家(勢州兵乱記)、朝明郡木俣家(勢州四家記(1638)、朝明郡?木股隠岐守(伊勢北郡諸氏録)と記録に出入りがあり、かつその居城を明確にしない。
木俣氏の祖は橘姓楠正成の孫正勝。その子孫が伊勢神戸に仕え木俣と称したという。阿波守守時の天文中(1532〜1555)三河に趣き家康に仕えた(事実文編)。
全休庵楠系図に楠城主正威の長男正富が木全の祖となり神戸家与力となったことが記されている。正富の長男藤内正澄は出家禅僧となり、次男次郎左衛門正充は楠城代川俣家に嗣子が途切れたため養子となった。同系図では正富の子は以上であるが、関の末弟甚内正資の子某の記に「住神戸為木俟祖」とあるので、養子を迎えたものとみられる。
永禄10年(1567)2月、滝川一益の北勢侵攻により、木俣清左衛門は諸城主とともに降伏。8月、信長の北勢侵攻の時、木俣隠岐守は先導となり北勢の諸城主とともに攻略に参加。
三百藩家臣人名事典に彦根藩家老木俣守勝の祖は伊勢国出身の兵庫頭守清という。天正10年本能寺の変の時、木俣守勝が家康の伊賀越えの案内にあたったのは伊勢国の地理に詳しいためであった。
「勢州軍記下(続群書類従)」には「瀧川没落事」として「(瀧川)豊前守は伊勢国住人木俣彦次郎なり。一益男色の愛に依り同名と為す」と見えるが、尾張藩士瀧川系図では木全彦次郎は近江住人大原資久を祖としてその孫征詮が尾州木全村(一宮市)により木全を称している。
| 楠城主4代 木全 ○楠正成━正儀━正勝━正顕━━正威━━┳正富━┳正澄僧 ┣女子 ┣正充楠城主5代 ┃ └某? ┗正資━━某↑(木俟祖) |
| 井伊家家老木俣氏 ○守清・・・・守時━━守勝━━守安━┳守明━━━━┳守長━━━━┓ ┗木俣長介家 ┣木俣兼千代 ┃ ┗木俣十蔵 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣守盈━━守貞━━守将━━守前━━守易━┳守 ┗木俣田宮家 ┗豊之進 |
井伊家家老木俣氏の祖、伊勢国出身という。(三百藩家臣人名事典)
木俣 守時、阿波守
伊勢神戸に仕えたが天文中(1532〜1555)三河に赴き家康に使えた(事実文編)
木俣 守時、阿波守
井伊家家老木俣守勝の父、三河国岡崎に生まれる。(三百藩家臣人名事典)
永禄10年(1567)2月、滝川一益の北勢侵攻により、木俣清左衛門は諸城主とともに降伏
木俣 某、隠岐守
永禄10年(1567)8月、信長の北勢侵攻の時、木俣隠岐守は先導となり北勢の諸城主とともに攻略に参加。清左衛門と同一人物か?また守勝も清左衛門を称している。
井伊家家老。
三河出身。9歳の時より徳川家康につかえたが、天正9年、家族と争いのため京へ逃げ、明智光秀に仕官した。播磨国神吉城攻め、大和国片岡城攻め、石山本願寺攻めに戦功があり、光秀に采が認められ、信長に会わせられたが、家康に呼び返させられた。
天正10年本能寺の変の時、伊勢国の地理に詳しい木俣守勝が家康の伊賀越えの案内にあたった。同年家康の甲州計略ののち、武田遺臣が井伊直政に付与された時に、家康の命により木俣守勝が甲州侍の物頭となった。守勝が甲斐に赴き甲州武士170余名をともなう帰路、たまたま信濃国でおこった高遠一揆を制圧して、井伊直政より2000石が与えられ、井伊家臣となった。またのちに1000石加増。
長久手・蟹江・小田原・九戸の合戦に参加。岐阜の瑞龍寺攻めや関が原の合戦で戦功があった。慶長7年直政の佐和山入城に従い、多年の功により「村雨の壷」が与えられた。間もなく直政が亡くなると、家康より幼主直勝の補佐に命ぜられた。井伊直勝は父の遺命により木俣守勝に1000石を加増都合4000石を領した。また彦根城築城にあたっては守勝が総奉行となった。守勝が井伊家新参の家臣でありながら、筆頭家老になり得たのは家康とのパイプ役であったからであろう。慶長14年守勝が病気となった時、家康は万病丹を贈ったというが、その甲斐もなく同年7月14日に京都で没した。56歳。京都黒谷金戒光明寺に葬られる。
2代目守安以降も代々の筆頭家老。2代守安の時5000石、3代守明8000石、4代守長9000石と加増、5代守盈の時伊賀組支配、10000石に加増、幕末に至る。
木俣清左衛門の子孫。前田家中にあり(三重国盗り物語)
瀧川家(旧木全氏) 尾張藩士
近江甲賀郡上野郷住人大原資久(大伴姓)の子資征が尾張に至り中島郡苅安賀城主浅井信濃守に仕え、同郡木全河内守(紀姓)の女を室としたのを祖とする。忠征の時滝川一益の寵により滝川性を許された。
木全光信━┳小沢光行━━某━━某━━某━━牧光義━━光尚仕徳川義直
┗女 ┏瀧川忠征━━━女
┝━━木全征詮━━忠澄━╋木全河内守 │
○大原資久━━資征 ┣木全兵部 楠貞孝
┗友田新右衛門尾張群書系図部・他 木全 征詮 又左衛門
資征の子。尾州中島郡木全村に住し苅安賀城主浅井新八郎に仕えた。
木全 忠澄 又左衛門
征詮の子。尾州中島郡稲島村に住し浅井新八郎、のち滝川市益、豊臣秀吉に仕える。
滝川 忠征 彦次郎(1559〜1635) 従五位下豊前守 はじめ法忠
滝川一益に仕え滝川姓を許された。のち豊臣秀吉に仕え次いで徳川家康に属した。元和2年徳川義直に属して禄6000石の老職となる。
寛永12年2月2日卒。77歳。前豊前守滝川大林宗機居士
妻は南部治部(下総守)女
木全彦市 滝川豊前守 伊勢国住人 男色の愛により滝川一益が同姓としたもっとも忠義の者(勢国見聞集)。
滝川豊前守女 某 楠十郎貞孝に嫁す(楠町史)
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