はじめ沢城主 |
神戸氏 関三家。河曲・鈴鹿郡の内24郷を領す。手勢1千人の大将。 伊勢国河曲郡神戸郷を発祥地とする神戸氏は、桓武平氏といわれ、関氏の一族である。すなわち関左馬亮実治の長子盛澄が神戸郷に住んで、はじめて神戸氏を称したという。 |
| ○関盛政━━○神戸盛澄━━越前守━━藏人大夫━━実重━━為盛──具盛━━━┓ 北畠政具┳女─┘ 平盛遠女┘ ┃ ┣材親━晴具━具教━信雄 ┃ ┗具盛↑ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┳織田信長━━━北畠信雄↑ ┃ ┃長野 ┝━━┳信孝↓ ┃ ┗信包 坂氏 ┗小島兵部 ┃ ┏女──┘ ┣長盛━━╋利盛───友盛──┬信孝 実信長三男 ┃ │ ┣友盛↑ │ │ │ ┃長野藤定女┗星合盛康 蒲生定秀女 ├女(高野可夕女) ┃ │ │ ┣高島政光━━勝政━━政房→ ├十藏(林与五郎子) ┣具氏(赤堀家養子) └政房━━良政 |
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| ┣女(楠正具嫁) ┗女 (山路紀伊守嫁) |
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神戸 盛澄、太郎左衛門、越前守
初代沢城主。亀山城主関盛政の長子。正平22年(1367)沢に築城。
神戸 某、越前守
神戸 某、下総守
神戸 実重、蔵人(〜1449)
沢城主。盛澄の子(高野家「家譜」では二代知れずとする)。応永30年(1423)、国司北畠満雅に命により、神戸龍光寺の普請奉行となった。同寺は神戸家菩提寺となった。
宝徳元年4月18日卒。龍光寺殿柏巌松公大居士。
神戸 為盛、下総守(〜1471)
沢城主。実重の子国司北畠教具の女を夫人とする。子がなく北畠より養子を迎えさらにきずなを増す。
文明3年4月23日没。
神戸 具盛、四郎、蔵人、下総守、号楽三(〜1551)
沢城主。為盛の養子。実は北畠材親の第2子、または政具の末子ともいい、京都相国寺の侍童であった。はじめ神戸一族との確執もあったがよく治めた。神戸家の勢力扶植のため北勢方面の各家と婚姻を結び神戸家の武名を広めた。
末年天文年中、居城を神戸に移すという。
天文20年3月3日没。後龍光寺殿一峯楽三大居士
神戸 長盛、蔵人大夫、号悦巌(1517〜1552)
沢城主。具盛の長子。楠、赤堀氏等とともに北勢近江東部に侵出。北軍の士を配下に置いた。一方関氏とは不和となり関盛雄と戦った。
天文21年6月12日卒。悦巌常喜大居士
神戸 利盛、太郎四郎、下総守(1536〜1559)
長盛の子、弱年にして武名が高い。弘治3年(1557)3月、神戸家の同盟柿城の佐脇氏が、小倉三河守率いる江州佐々木義賢明(承禎)の軍3千に囲まれたため、同月28日これを救援するため神戸利盛は1千余騎を率いて出陣。この隙を神戸六奉行の一人岸岡城主佐藤中務丞父子の謀反により江州軍に神戸城を略奪されてしまった。
急を聞いて引き帰した利盛はすでに時遅しであったが、幸い佐藤の家臣古市与助が、主に背き岸岡城に利盛を招きいれた。同族関氏とは不和であり、母方の長野氏の援軍を得て神戸城を包囲して江州軍を撃退した。謀反の佐藤父子は十宮村に潜んだが、利盛はこれを許すと称しておびき出して両名を誅殺した。
永録2年5月16日没。23歳。涼巌宗清大居士
神戸 友盛、蔵人大夫、下総守(〜1600)
長盛の子。土師福善寺住職。兄利盛が早世したため、永録2年(1559)還俗して神戸家を継いだ。まもなく9月には、利盛の叔父具氏が養子に入った赤堀の同族浜田城が長野勢に囲まれる浜田合戦がおこった。友盛は軍を派遣して赤堀氏に加担して安濃浦より海上を押し寄せた長野勢5千余人を向え討った。
同年(翌年とも)の茂福合戦では友盛の与力茂福城(朝倉盈豊)が羽津城(田原国虎)に攻められたが、友盛は軍勢2千騎を兵船80艘に分乗して背後から包囲して利を得た。
永録3、4年頃、長野藤定が神戸城を攻めるため岸岡の海雲山光勝寺を焼きはらったため、友盛は軍を率いて岸岡に発向したが、劣勢と見て撤収して、神戸龍光寺に引き帰した。
永録中関、神戸両家は不和を押して蒲生氏と縁戚となり六角家と同心一味となった。永録10年(1567)8月信長の軍が楠城主を案内として神戸家の出城高岡城を攻めた。城将山路弾正はよく防ぎ、おりからの美濃の不穏のため信長は兵を引かざるを得なかった。翌年2月信長は4万の軍勢を率いて再来して、信長の三七郎を友盛の養子とすることをもって和睦を告げて来た。友盛はほかに道のないことを悟り高岡陣中にて信長と対面これを受けた。亀山の信盛を除く関一党も信長に降ったので、六角氏は多いに怒り人質の円貞坊を塩攻めにしたという。
永録11年(1568)には信長は長野氏を攻略し、その弟信包を養子とすることで和睦、友盛の姉がその夫人となった。信長はこの年7月足利義昭を美濃に迎え、9月には観音寺城攻めに入った。佐々木義賢明(承禎)は戦わずに甲賀山中に逃れたが、友盛は義兄でもある蒲生家の滅ぶことを惜しみ講和に翻弄した。
永録12年には信長の北畠家攻めに加わり、はじめに陥落した阿坂城を関・浅井氏等と守り、これを拠点に国司の大河内城を包囲した。元亀2年(一に3年、1571)正月友盛夫妻が日野城の蒲生定秀のもとに年賀に詣でると、信長は三七郎の冷遇を咎めて友盛を日野城に抑留して、事実上の隠居とした。元亀4年には関盛信も日野に幽閉され、天正10年信孝から、神戸城の留守を命じられているが、本能寺の変(1583)まで当地に留められた。
その後は安濃津に逃れ当地で客死し絶家となった。
神戸 信孝、三七郎、侍従(1557〜1583)
信長の三男。永録11年(1568)11歳で神戸家の養子となり、友盛の女(実は高野可夕入道の女とも言う)と婚約。元亀2年神戸家の冷遇を信長に訴え、養父友盛を日野に幽閉した。この年12月28日友盛の旧臣山路弾正らは三七郎に謀反を企てたが、露見して滅ぼされ、高岡城は三七郎の異母弟小島兵部少輔に与えられた。この頃神戸領では検地が行われ神戸侍の知行地を削り、三七郎に付随した尾張侍に与えられた結果、神戸侍120人が浪人となった。
元亀3年(1572)正月15歳の三七郎は岐阜にて元服。神戸信孝を名乗り、侍従となる。この頃長島一揆が盛んとなり、天正2年(1574)には北畠信雄、神戸信孝兄弟も参陣、大崎城を攻撃した。
本能寺の変の後、秀吉との戦いに破れ知多半島で討死。
神戸良政系
「勢州軍記」を著禄した神戸良政は神戸下総守の甥の孫。
○神戸下総守(具盛)┳長盛━━利盛──友盛──信孝──政房━━良政
┗高島政光━━━勝政━━━政房↑神戸録
神戸 某
良政の祖。その伯父下総守(具盛)に悪まれ、神戸を去り浪人となり南勢船江にて北畠家中となった(鈴鹿市史)。
高島 政光 次郎左衛門尉(1520〜1572)
具盛第二子。母は高島城主高島氏の女により母氏を冒し北畠氏に使え南郡船江郷に移る。天文中鷺山の役に功あり。元亀3年6月2日死、年52(神戸録)。
高島 勝政 次郎左衛門尉(1540〜1594)
政光の子。母乙部氏の女。永録天正中大河内城にあり、伊賀の役に功あり。勝政は常に北畠氏及び宗室の滅を憂い子の正房を友盛の嗣子とした。文録3年5月26日死、年54。浄泉寺に葬る。法諡無塵清虚禅定門(神戸録)。
神戸 政房 外記
良政の父。南勢にて生まれる。蒲生氏郷に仕え会津、宇都宮、近江日野、伊予松山に転住して亡くなった。平常諸家の古記録を好んで閲鑑して、その相違を記し、伊勢諸侍の由来を記録して、子の良政に授けた(鈴鹿市史)。
神戸 政房 外記(1571〜1629)
高島勝政の子。母公文氏の女。父勝政により神戸友盛の嗣子となった。天正年中蒲生氏郷に仕えて会津に赴く。孫の蒲生忠知の伊予松山へ知行替えによりこれに従い歩卒30人の首領となる。寛永6年10月10日死、年58。龍穏寺に葬る。法諡無菴道本居士。あるいは政房船江に帰郷という(神戸録)。
神戸 良政 佐左衛門(1609〜1666)
「神戸禄」は能房に作る。「勢州軍記」著者。父の仕えた蒲生家にしたがって転住。寛永11年(1634)蒲生家に嗣子なく断絶のため浪人となり伊勢に帰った。蒲生家にあった17・8歳のころから父の記録に基づき、家中の伊勢侍の伝などから「勢州軍記」作りをはじめて、伊勢に帰ってさらに聞き書きを進め書物としてまとめたらしい。寛永15年には「勢州軍記」を抄録した「兵乱之記」を取りまとめ、このころ伊勢の一部に領地を得た紀州大納言(徳川頼宣)に奉上した。
承応年間(1652〜1655)紀伊侯に召されてその臣となった。寛文6年11月11日没、58歳。中巌道門居士。
「氏郷記」を加筆増補した神戸道門とはこの人である。(「勢州四家記の著者」村田正言、国史学第5号)
神戸 能房 左衛門尉
政房の子。母は冠木氏の女。会津に生まれ松山に移る。寛永中蒲生忠知卒して邑除かれ伊勢に帰るも、罹廟して草薙髪する。紀伊太守頼直伊勢に来り前代の事を問うことあり、能房家に先人の会津にて古老に聞くところの手録賀あったので、これにより寛永15年9月11日「伊勢軍記」一書を進上した。承応年中、紀伊侯に召されてその臣となった。寛文6年11月11日没、年58。各草禰宜村歓喜寺に葬る。法諡中岩道門居士(神戸録)。
旗本 神戸家
| ○神戸盛信━━盛武━━雅盛━┳雅珍━┳雅昭─┬珍英 ┏旦信 ┗正頼 ┣女 │ ┝━━╋女 ┣蔵之丞 └女 ┣英之丞 ┗女↑ └女 |
| ○神戸繁廷━┳繁度━┳女 ┣女 ┣女 ┗氏行 ┣女 ┏某 ┣繁矩━┻繁英━━繁昌 ┣女 ┗智宣 |
| ○神部保久━┳保平━┳女 ┃ ┣式部 ┃ ┣采女 ┃ ┣女 ┃ ┗女 ┏女 ┗保貞━┳保邦━┻保共━┳保固━━保章━━保梢 ┗喜八 ┗女 |