鹿伏兎氏
加太城主。正平22年(1367)ころ亀山関第五子盛宗が分家。
盛氏のとき長島一揆に加担し討ち死にのため本家は滅亡し、その傍系定義は後に赦され関一政に付されたが、滝川氏の亀山城乗っ取りに与したため秀吉の征伐を受け離散した。長男定基は安濃津城主織田信包に仕え旧領を復し、後小早川氏に属し関ヶ原に従った。次男定俊の系が桑名藩士となり明治にいたる。
また家綱の御典薬奥盛良は鹿伏兎左京太夫の後という
| ○盛宗━━定俊━━忠賀━━忠業━┓
┏盛氏(絶) ┃ ┣六郎 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣女 関盛利(盛員)室 ┗定孝━━定則━━定好━┳定長━┳定秀━╋女 ┃ ┃ │ ┝━━盛義━┳盛定 ┃ ┃ │鹿伏兎盛宗 ┗久助 ┃ ┃ └定基 ┃ ┣定義━┳定基↑━定之 ┃ ┃ ┗定俊━━重宣━━定雅(有子孫) ┃ ┗林定保━━保春━━喜右衛門(帰農) ┣坂定住━━定和━━定吉━━定政 ┗坂縫殿介 |
加太 盛宗、実親、讃岐守(〜1381)
正平22年(1367)ころ亀山関より分家。弘和元年8月21日卒。会下瑞光寺に葬る。瑞雲院殿前讃州太守永巌哲公大禅定門
加太 盛宗、頼盛、実親、讃岐守 鹿伏兎氏祖 永徳元.8.21歿
加太 定俊、左京亮(〜1404)
加太第二世、応永元年(1394)、新福寺(関町市場神福寺)を創建。
応永11年7月6日卒。新福寺殿前京兆以應善公大居士
加太 定俊、貞俊 盛定 左京亮(〜1410) 応永17年7月6日卒(関町史)。
加太 忠賀、孫太郎(〜1428)
第三世、応永19年(1412)南北朝両党更立に違約したとして、同21年より翌年にかけて歴戦。
正長元年6月9日卒。円通院殿涼澤心公大居士
加太 忠賀、貞賀 右京亮 孫太郎
加太 忠業、右京亮
正長元年忠賀を継ぐ。翌年足利義教は南朝方攻めを伊勢守護土岐持数に命じた。関左馬助盛雅等と北畠に従い防戦したが翌年足利氏に降る。
加太 定孝、宮内少輔
応仁の乱(1467)に関一党に従って上京。鹿伏兎氏は相国寺東門を守護した。11月3日早朝五万の兵が相国寺を囲み堂宇に放火。全軍潰敗となり本国に引き上げる。戦死者多数という
加太 定則、上総介
加太 定好、四郎、宮内少輔
定好 盛秀 四郎 宮内少輔
加太 定長 近江守
天文5年(1536)亀山城主関盛信に従い先鋒となって奄藝郡に進み林城主林重越を安濃郡に逐う
天文7年(1538)三子定保を伴い林村に入り奄藝郡東部を平定して城館を築く。
天文11年(1542)優秀な白鷹を前将軍義晴に献上し、鹿伏兎城に白鷹城の称を給う。
天文13年(15449月)関一党は国司の命により長野、美濃越前と協力して六角氏を助けて京極佐々木六郎を攻め12月22日これを破り六郎は自殺。
永録12年(1569)信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、弟坂定住らとその路地を塞ぎに出たが、信長と講和。
加太 定長 秀清 弥三郎 近江守(〜1576) 天正4.2.4歿 寂照院殿雲岳良公大禅定門
加太 某、豊前守、宗心(〜1570)
定長の嫡子。旧交のあった浅井長政が元亀元年(1570)6月兵を起こすと、鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。同28日姉川の合戦に佐々成政と激戦し、また本陣に加わり信長の旗下酒井忠次、小笠原長忠と格闘して遂に討死した。
加太 定宗 秀宗 弥次郎 豊前守 宗心(〜1573) 天正元.8.10歿?太嶺院殿月窓宗心大居士
加太 盛氏、四郎(1556〜1574)
宗心の子。天正2年(1574)叔父の林定保が滝川一益とはかった雲林院に攻められると、間道柚木越えを経て安濃郡より雲林院の背後を脅かし滝川との講和に結びつけた。この年7月兄弟六郎とともに長島一揆に与して一夜風雨中美濃大田口に織田氏の将氏家経国を討ち取るも共に戦死。18歳
加太 盛氏、六郎四郎
加太 六郎(1559〜1574)
宗心の子。兄弟四郎とともに長島一揆に与して一夜風雨中美濃大田口に織田氏の将氏家経国を討ち取るも共に戦死。15歳
加太 盛宗 孫右衛門 若狭守 実村田兼憲子 定秀の婿。
加太 定義、左京進
定長の次男。元亀元年関盛信が蒲生氏の女を娶り六角に属すと、定義もまた六角氏に款を通じた。翌年長島一揆が起こると両家はこれに通じたため、信長は一揆平定後天正2年両家を処罰。関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義の所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして鹿伏兎城を安堵。天正5年雑賀一揆、同6年対毛利戦、10年江州発向に信長に従軍。天正10年(1582)四国発向のため関盛信の幽閉が解かれ旧封亀山を復されると、鹿伏兎氏はこれに付された。渡海準備中の6月2日本能寺の変が起こると関一族は信孝に離反して帰国した。
このとき上洛途中の徳川家康はやむなく帰国せんと、信楽よりの途上しばしば土賊に悩みつつも、ようやく鹿伏兎に到着。これを向えた定義は老身をもって次子定俊を亀山先までの護送としたので家康はこれを徳としたという。天正11年正月関盛信・嫡男一政が秀吉に年賀のため城を空けた隙に、内紛中の家臣岩間等の策略に国府氏滝川氏が乗じてその城を乗っ取ってしまった。秀吉はこれに討伐するため7万5千の兵を発し時多羅、君ヶ畑、安楽越の三方向から伊勢に侵入。ようやくこれを奪回した。当時定義は関家とは相協しないところがあっで、滝川に与したため攻められ、遂には鹿伏兎城を開城して一族離散するところとなった。鹿伏兎領は安濃津城主織田信包に与えられた。定義は京師に隠れて遂に臨終したという。
加太 定保、民部少輔(〜1574)
定長三男。天文7年(1538)父定長に従い林村に入り奄藝郡東部を平定する。林を称し林氏の祖となる。天正2年(1574)滝川一益とはかった雲林院に攻められると、甥の四郎は間道柚木越えを経て安濃郡より雲林院の背後を脅かし滝川との講和に結びつけた。この戦中に定保は病死したが、家臣等は喪を秘し、嗣子保春を奉じて善戦したという。
加太 某、主馬
永録11年(1568)信長の伊勢侵攻の時最後まで抵抗を試みた平田城の援将に出たが討死した。
坂 定住 藏人
坂家の祖。鹿伏兎郷内梶ヶ坂に住し氏とした。北畠討伐のとき兄と共に出陣して戦功があった。
坂 某 縫殿介
鹿伏兎城落城後の子孫
加太邦憲系
| ○定義━┓ ┏天全和尚
┏男夭 ┏━━━┛ ┣七右衛門 ┣男夭 ┣定基━駒之介 ┣庄右衛門 ┏孝喜━╋邦憲 ┗定俊━┓ ┏七兵衛━╋七兵衛 ┃ ┣頼茂↓ ┏━━━┛ ┃ ┗八兵衛 ┏女 ┃ ┣女夭 ┗重宣━┓ ┃ ┏彌左衛門(断) ┣女 ┃ ┣女夭 ┏━━━┛ ┃ ┣小塚利右衛門 ┏孝昌 ┣女 ┃ ┣男夭 ┗定雅━━━╋重孝━┻孝寛━━孝成━╋孝通━┻女 ┃ ┣女 榎本師美室 ┗實孝──孝故(断) ┗孝義 │ ┃ ┗女 鈴木長利室 吉村宣春━━孝厳━┻青木頼救──頼茂 |
加太 定基系
加太 定基 右馬介 定義の嫡男。鹿伏兎城没落後安濃津城主織田信包に仕え、鹿伏兎城を託せられ図らずとも旧城邑士卒を管した。後に小早川秀秋に仕え1600石を食み、関ヶ原の軍に従う。秀秋の岡山襲封に伴うも慶長7年秀秋病没。翌年池田輝政同所に封ぜられるにあたりこれに仕えて同禄を受ける。当地で一子をもうけ輝政これに駒之介と名を命ず。
加太 某 駒之介 岡山を辞して西国に流浪。
加太 定俊系
加太 定俊、中務介、道関
定義の次男。天正10年(1582)6月2日本能寺の変が起こると上洛途中の徳川家康はやむなく帰国せんと、信楽よりの途上しばしば土賊に悩みつつも、ようやく鹿伏兎に到着。これを向えた父定義は老身をもって次子定俊を亀山先までの護送としたので家康はこれを徳としたという。加太落城後は当地にとどまり入道して堂関と号す。
加太 重宣、定宣、彌右衛門 定俊の子、慶長年中伏見城主松平定勝に仕え録200石。元和3年(1617)定勝の転封に従い桑名に移住。
加太 重孝、平太夫 重信の次孫。寛永12年定勝の嗣子定行の予州転封に従い松山に移る。録180石、船奉行、三津浜に住す
加太 某、彌右衛門 重孝の嫡子。小姓役となるもいくばくもなくして卒。嫡子なくして断絶。
小塚 某、利右衛門 重孝の次男。三男孝寛は分家。
加太 定雅系
加太 定雅、七兵衛、永久 重宣の嫡子。慶長13年(1608)藤堂高虎安濃津襲封につき入国、加太郷通過の折加太家系図を一覧のうえ、定雅にさとしてこの地を去るなからしむ。高虎の子高時の代にいたり、定雅に郷内銃手長を命じ扶持を給う。
加太 某 七兵衛 定雅の子、加太に住し郷内銃手長は親に同じ。
天全和尚 定雅の長孫
加太 某、七右衛門 定雅の次孫 子孫加太住人。
加太 某、庄右衛門 定雅の参孫
加太 某、七兵衛 定雅の四孫、継嗣。子孫加太住人。
加太 某、八兵衛 定雅の末孫、寛永中商肆を江戸麹町に開いて家道慇懃、幕府の用達となり苗字帯刀を許された。その子孫は幕末外国より武器艦購入等のことにあたったが、幕府の瓦解と共に零落した。
加太 實孝系
加太 實孝 左五兵衛(〜1678) 重孝の弟。松山候に仕え定頼の三子定重公出でて支族桑名松平家を継ぐにあたり傅となり桑名に移住して録650石を給う。延宝6年卒。桑名仏眼院に葬る。子がなかったので甥亀山の重臣伊奈求馬正直の子左一郎を養子とする。
加太 孝故 左五兵衛 左一郎(〜1710) 實孝の養子。実は亀山の重臣伊奈求馬正直の子左一郎。定重公の息定逵公に仕え重臣、録850石を給う。宝永7年(1710)一夜江戸浜町藩邸において同僚小栗伊兵衛と争議、遂に格闘に及び小栗を殺し自身も重症となりその夜落命。浅草寺に葬る。ここにおいて加太小栗両家断絶。
加太 孝寛系
加太 孝寛 與市兵衛(1657〜1739) 重孝の次子。桑名(のち高田)藩士。たまたま桑名の実孝のもとに奇遇中定重公の知るところとなり、遂に公の命により延宝6年(1678)実孝死去に際して、新たに家を起こして50俵4人口を給い、江戸藩邸において次番役を命ぜられる。實高の嫡系、実高の弟實孝の両系が断絶するなかで、家名を存続したのは大幸であった。のちに大小姓小納戸を勤め150石加増。宝永7年定重公高田に移封のため、孝寛も享保3年(1718)江戸より高田に移る。翌年5月致仕し特に養老資30石を賜う。元文4年8月21日卒。享年82。高田太岩寺(上越市高田寺町曹洞宗高陽山太岩寺)に葬る。
加太 孝成 重好、喜内(1699〜1777) 孝寛の嫡。高田(のち白河)藩士。録120石を給い、監察、大監察、用人、公用人、郡奉行を歴任。宝歴7年(1757)定府を命ぜられる。寛保元年藩公白河に移封のため、寛永5年(1776)致仕後は白河に移る。孝成才器あり学を好み政務に通じ頗る勤勉、常に要路に鷹り政務に鞅掌し、その行為公平にして一藩の称するところとなる。藩公孝成の勤功を録したびたび俸禄の加賜を辱うし230石に至る。同6年6月14日卒。享年78。白河長寿院(白河市本町)に葬る。
加太 孝昌 瀧五郎 孝成の長子、早世
加太 孝通 喜内、左内(1739〜1817) 孝成の次子。遺跡を継ぐ。宝歴9年(1759)近侍、定信(楽翁)公に仕え使番、物頭に累進。文化14年8月21日卒。享年78歳。孝通男子なきため同伴の老臣吉村宣春(福島正則の長臣吉村宣充の後胤)の四子孝厳を第四女の婿として養子とした。加太 孝厳(たけ) 佐五兵衛 号遊斎(1788〜1860) 孝通の養子。実は吉村宣春の四男。文政6年(1823)定臣公の嗣子定永公に仕えこれに従って桑名に移り物頭から旗奉行に進む。安政2年(1855)致仕して遊斎と号す。同7年2月26日卒。享年72。桑名長寿院(臨済宗妙心寺派 三重県桑名市寺町)に葬る。長子孝喜跡を継ぎ次子頼救出でて青木氏を冒す。
加太 孝喜 孝顕 喜内、号羽扇(1819〜) 孝厳の子。母は加太氏。文政2年白河に生まれ5歳にして桑名に移る。嘉永6年(1853)米艦渡来に付き翌年1月藩命により江戸洲崎の警備にあたるが、事なくして同年5月帰桑。元治元年(1864)物頭に挙げられ、同年7月藩主定敬公に従い京師にあり。十九日の役公卿門において防戦。敵を撃退して厚く藩公の賞するところとなった。この冬水戸の武田耕雲斎が朝廷に訴えるところありと称してその徒を率いて京師に向ったためこの討伐のため一橋公に従って越前に赴き武田等降服の後帰洛。慶應3年(1867)藩の軍制改革に際し中隊頭に任ぜられ、明治元年(1868)正月藩公に従い大阪にあり。下鳥羽の戦に士卒一中隊を指揮したが、軍破れて江戸に敗走した。江戸で病を得て遂に桑名に帰る。同2年末隠居して羽扇と号す。明治8年1月22日熱を病んで卒。享年57。桑名長寿院(臨済宗妙心寺派 三重県桑名市寺町)に葬る。五男四女あるも多く夭す。三男邦憲跡を継ぎ、四男は叔父青木頼救の養子となる。三女は榎本師美、四女は鈴木長利に嫁す。
加太 邦憲 孝基 縫殿介 号吉甫 号白鷹(1849〜1929)
「関西大学を築いた人びと」より加太邦憲は嘉永2年(1849)5月19日に桑名外堀で生まれた。父は桑名藩士加太孝喜、母は同藩長尾元勲(たか)五女鶴子。藩校・立教館で学び、慶応元年(1865)に立教館の講師となり、漢学を教えた。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは桑名からの援軍に加わり、奈良まで行ったが、敗報を得て桑名に戻り、本統寺で謹慎た。この謹慎中に小沢圭次郎から英文を見せられ、謹慎が解けてから、仲間とともに英語を学んだ。立教館再開により、彼は講師に復帰したが、立教館では旧来の漢学のみが学問であり、西洋の学問は学問でないとの方針だった。 この方針に彼は反発して辞職し、上京。明治3年(1870)2月29日に桑名を出て、東海道を歩き、東京に3月9日に着いた。藩の奨学金で8月に大学南校(東京大学の前身)に入り、フランス語を学んだ。当初は兵学を学ぶつもりでフランス語を選んだが、身体虚弱のため、兵学をやめ法律を学んだ。明治5年に大学南校を退校し、司法省明法寮学校(東京大学法学部の前身)に入校し、フランス法学を学んだ。翌6年には桑名藩士鵜飼氏の次女歌子と結婚。25歳(数え年)、歌子は18歳。
明治9年に卒業し、日本で最初の法学士の1人となった邦憲は、司法省法律学校に勤めるとともに、フランス民法の翻訳を行い、日本での民法制定の基礎を作った。中でも明治16年に完成した「仏国民法条文」の翻訳では、訳語の創作に苦労した。このときの訳語が、その後も日本の法律用語として使用されている。
明治19年3月から明治23年7月までヨーロッパに留学し、帰国後は大津地方裁判所長兼第三高等中学校(京都大学の前身)の法学部講師。翌24年2月から京都地方裁判所長となり、明治29年には東京地方裁判所長に転任。明治31年、北畠治房の後任として大阪控訴院長に勅任される。本校との関係はこの時から始まる。同年、本校校長に推挙され兼務。以後、約8年間にわたって江戸堀校舎の新築、社団法人の設立、専門学校令による「私立関西大学」昇格等の業績を挙げる。病に倒れて健康面を理由に明治38年11月6学長を辞任(休職扱いで、給料は3分の1支給)。その後は東京に移り、旧桑名藩主松平家の御用係、明治43年には貴族院議員に選ばれた。明治45年(大正元年)維新史料編纂会の委員に選ばれ、明治維新当時の桑名藩について調査。同年中国朝鮮方面視察。また日仏協会の嘱託を務めた。大正3年勲三等に叙され旭日章授与、金杯一個下賜。9年4月勲二等瑞宝章。
彼は老年にいたり、壮健となり、昭和4年(1929)12月4日に東京の自宅で亡くなり、東京谷中の玉林寺に葬られた。享年81歳。「仏国民法法文」「仏国民法釈要」「仏国経律実用刑法部」「仏国県会法評説」の翻訳。「桑名藩京都所司代中の事情」「桑名開城顛末」「欧州紀行」の著書(西羽晃ほか)
青木 頼救系
青木 頼救 市左衛門 加太孝厳の次子。出て青木氏を冒す。元治元年7月19日の役に戦功あり。のち中隊頭に任ぜられる。
青木 頼茂 頼救の養子。実は孝喜の四男。陸軍歩兵少佐、西南・日清・日露の三役に従軍し、日清戦役では乃木旅団に属して功五級に叙せられた。
幕府番医 奥氏
平惟盛の後、関・鹿伏兎を称し、盛良の時奥と改める。家紋揚羽蝶
| ○盛興━━盛時━┳盛治 ┗盛良━━捨蔵 |
鹿伏兎 盛興 左京大夫
足利義昭に仕え、天正元年(1573)義昭宇治の真木嶋城に立てこもり織田信長と合戦の時、軍忠を励ました。真木嶋没落ののちは処氏となり同属関安芸守宗一(盛信か)に属す
この人邦憲譜に見える加太左京進定義か?不詳。
鹿伏兎 盛時 勝右衛門(〜1624)
盛興の子。関宗一および長門守一政に仕える。天正年間神戸城主神戸与五郎(林正武)の大軍が関一政の居城を襲撃、その西面に放火せんとするとき葉若藤左衛門・桜井吉兵衛・若林藤兵衛等と一番に馳せ進み善戦した。神戸の臣橋本久象の槍が盛時の股を突いたが、盛時もまたその胸板を突いて首級を取った。寛政元年安芸広島に於いて死す。法名休也
鹿伏兎 盛治 源兵衛 盛時の長子。松平忠明(姫路城主)臣。
奥 盛良 儀兵衛 宗印(〜1657)
鹿伏兎盛時の次子。はじめ関一政に仕えるが慶長15年伯耆国黒坂城移封の時伊勢にとどまる。後紀伊国に至り浅野幸長の臣奥弥兵衛に従い炮術を学んで奥義を極めその名跡を与えられた。元和2年故有り和泉國堺に至り庄田宗心に南蛮流外科医術を学び剃髪して宗印と号した。寛永18年家綱胎毒疱瘡を煩った時に召されて江戸に至り調薬。12月平癒により時服2領・羽織・白銀10枚を給う。翌19年正月19日月俸を給い2月8日法橋に叙す。4月朔日より隔日に営中に侍し、後月俸廩米200俵。正保3年正月23日100俵を加えられる。慶安4年9月15日番医。明暦3年死す。
奥 某 捨蔵 宗悦 宗円 明暦3年12月25日遺蹟相続