伊藤(藤原)
藤原基景が伊勢守となって伊勢に繁延したことにより伊藤を名乗った。平家方としてよく働いたため平氏を冠する事がある(平忠清、忠光、平景清など)が、平忠清は源頼朝の外曽祖父でもある。
後裔として神戸家の重臣佐藤中務正の家来古市与介、古市九郎兵衛は景綱の末枝。桑名東城主伊藤豊左衛門家は景綱の後という。また美濃の林姓は平景清の子孫。
| ◎藤原秀郷━━(七代略)━━┓ ┏忠綱
┏忠経 ┏━━━━━━━━━━━━┛ ┏忠清━╋忠光━┻景清↓ ┃ ┏基清 ┃ ┣景清━┳景直━━景成━━林景顕 ┗○伊藤基景━┻基信━━景綱━╋忠直 ┗女 ┗女 ┃ ┝━━源義朝━━頼朝 ┣大日坊 源為義 ┃ ┏景経 ┗景家━┻景高 |
伊藤 基景
平将門の乱に平貞盛と協力して功のあった藤原秀郷(俵藤太)の七代の子孫。伊勢の守となって当国に居住した。
伊藤掾 平維衡の郎党。長元元年(1028)7月、維衡郎党高押領使とともに三河国の下女多数を略奪(小右記、四日市市史)
基景の息男。員弁郡志知村(桑名市)に居住して平正盛(12世紀初頭)の郎従となった。平景清居住という南浦館は曽祖父伊藤基信の館の訛伝か。
基信の息男。伊勢守、白子古市の住人。伊藤武者という。
上総介忠清(伊藤五)、飛騨守景家(伊藤六)の父で平悪七兵衛の祖父。
伊勢三郎義盛の川島領を横領した。
藤原 忠清(〜1185)
平 忠清法師
伊藤景綱の子。上総介。伊藤五。悪七兵衛景清の父。
18歳の時、鳥羽殿の宝殿に逃げ込んだ畿内随一の悪党二人のうち、一人を討ち取り、一人を生け捕りにして名を高めた。「八カ国の侍の別当」を賜った板東の平氏郎党の統率者。
宇治川の戦いでは宇治川迂回を提案。富士川の合戦で大敗し、そのことに激怒した平清盛に死罪を命じられるが、平盛国の取りなしで不問に処せられた。
1183年4月には木曾義仲追討のため、子の平景清、藤原忠光とともに出陣。各地で源氏と戦うが、志麻の麻生浦で捕えられて斬られた。http://hyohyohyo.cool.ne.jp
1184年の伊勢伊賀の平家余党の乱に関わるが、山中に逃亡している(東鑑)。
藤原 忠光(〜1192)
平忠光とも。藤原忠清の五男。悪七兵衛景清の兄。平氏のために奮戦。父・藤原忠清や悪七兵衛景清らと共に以仁王・源三位頼政挙兵鎮圧に活躍。侍大将として木曾義仲討伐にも参加した。壇ノ浦で平家が滅亡すると行方不明に。
のち、源頼朝が永福寺造営の現場を視察に来た際、魚の鱗を目に入れ盲目の人夫を装い、源頼朝を暗殺しようとしたが見破られ、処刑された。しかし一説によると、1196年7月に平知盛の遺児・平知忠を大将として謀反をおこしたという。 http://hyohyohyo.cool.ne.jp
上総介忠清(伊藤五)の息男。平氏の侍大将。摂津で日本達磨宗の開祖である叔父大日坊能忍を殺したため悪七兵衛と呼ばれた。寿永2年(治承7、1183)平維盛・知盛に従い源義仲・行家と戦い、のち一門と共に西走して各地に転戦、平家滅亡の後建久6年(1195)源頼朝に降ったが、断食して亡くなった。平家によく従ったため平と称される。
志知の南浦館(桑名市)や丹生川久下の景清屋敷など各地にその伝承地は多い。南浦館は曽祖父伊藤基信の居館であった。溝野の中ノ堂の本尊は景清の草創と伝える。
加藤 景清 (旧城跡附)
平 景清
波動剣、旋風剣を自在に操るこの男を源平時代最強の武士とする声も高い。屋島の合戦で美尾谷十郎と戦い、その冑の錣を断った逸話は有名。
壇ノ浦で源氏に捕えられ、身柄を和田義盛、次いで八田知家に預けられ、その後断食の末死亡。
しかし一説によると、壇ノ浦から逃亡し、1196年に平知盛の遺子・平知忠を大将として反乱を起こしたという。http://hyohyohyo.cool.ne.jp
伊藤景清女
平田荘加納郷紀十郎國奉妻。「尊卑分脈」に国奉の子「國光母悪七兵衛景清女」と見える(紀氏系図)。
伊藤 景次 太郎 禅光女参照 景清の族か
禅光女
紀十郎次郎國光妻。「尊卑分脈」に国光の子「奉利母伊藤太郎景次孫禅光律師女」と見える(紀氏系図)。
藤原 景家
伊藤景綱の子。藤原忠清の弟。平貞能と共に、200騎を率い、藤原成親ら反平家勢力の捕縛に向う。
宇治橋の合戦では兄・藤原忠清に従い活躍し、源頼政、ついで以仁王を討ち取った。
のちに平維盛に従って木曾義仲を攻撃するが失敗。退却の途中の安宅橋で、子の藤原景高が根井幸親に殺された。のち剃髪して僧となった。 http://hyohyohyo.cool.ne.jp
藤原 景経
飛騨守景家の子。母は平宗盛の乳母。幼少から平宗盛につかえた。1185年の壇ノ浦の合戦で平宗盛が伊勢義盛に捕えられた時、これを救おうとしたが、堀親弘に射殺された。http://hyohyohyo.cool.ne.jp
林 景顕 重左衛門
伊勢員弁郡志知郷の林姓で景直ー景成ー景顕と続き、景顕の時(寛元ー宝治1244頃)北条時頼に仕え、薬の献上の功で、美濃大井庄内に土地を得て、林村として開発し、名も林重左衛門景顕とした。(角川日本地名大辞典、大垣市林町顕性寺由来書、系図、寺奥さんの話より)
http://www.ehime.net/bbs/yuduki/?3599