
伊藤氏・味岡氏
桑名東城主。伊藤景綱の後裔という。桑名三ヶ邑の内烏の松原の地頭伊藤武左衛門(勢桑見聞略志)。桑名三十六家の一家。江戸旗本に伊勢桑名の住人伊藤實俊家があり、幕末まで続いた。桑名に残った武左衛門の系は小網町に屋敷免除地があった。また富田一色の郷士伊藤平次郎は實房4代目平右衛門を祖としている。
名古屋の味岡氏はその祖味岡次郎左衛門が、総見院(信長)に仕えて伊勢国桑名郡小貝須村にあったという(角川人名辞典・愛知)
実倫の弟彦作は信長に仕え本能寺に討死した。同側近に伊藤蘭丸があるが関係不詳。
北畠具起(系不詳)の子僧道恵(伊藤具俊)は、文明年間(1469〜1486)桑名円明寺を開基。後水害のため名古屋九十軒町(東区)へ移転した。
| 伊藤景綱━━忠清━━忠経━━忠光━━景清・・・ ┏實道 ┏實俊?旗元祖 ┣某 ┏實憲━━實應 ┣實清 ┣祐誓 ┗━━━━━━━┓ ○實房━╋實倫━━實直━╋實元━┳實次━━實員──實致━━實利━━實景━┛ ┗實正 ┗女 ┗實致↑ 実房四代平右衛門━○━○━平次郎━○━○━○━平治郎 武左衛門族明西━━暁意━━教意━━宗安━━恵休━━恵林(晴雲寺系脈) |
伊藤 某 市平 味岡殿
武左衛門の祖という。治承年中(1177〜1181)員弁郡味岡庄貝須村(桑名市小貝須)に住居したが、ある年洪水大風雨のため高波に潰滅。その後烏の松原(春日神社周辺)に移るという(桑名志郡城址考)。
伊藤 某、兵部少輔(〜1392)
足利尊氏公の御代祖先悪七兵衛景清の冑一刎直垂片袖を所持して関東より桑名郡に来たる。その時三崎の郷士兵部少輔に謂て曰く「此処藤原氏祖神にて何も此の氏人にして他国の人は一所氏人に成し難き」よし、時に伊東を伊藤と改め桑名に居住という。
明徳3年8月274日没、智光院殿権大僧都壽円了明大居士(伊藤家譜、桑名市郡城址考)。
伊東
伊藤 實房、兵部少輔(1452〜1523)
先祖は伊藤武者景綱、悪七兵衛景清の後裔という。
永正10年(1513)の春、関東より来たり東城を開く。もと伊東と称すが、春日神社の氏人等他姓を容れるをよしとしなかったため、東を藤と改め、藤原氏となる。景清の冑・直垂の片袖を伝来していた。
大永3年(1523)9月25日卒。「名所図会」に大永3年(1523)9月23日卒。常光院殿という。
伊藤武左衛門実房の墓は仏眼院にあり。市指定文化財 2段、正面中央に「常光院殿静斎蘭香大居士」両側に「天正十一癸未年九月廿五日」(1583)
城地は今の三の丸。武左衛門やぐらのあと今尚残るという。室は勢州久居城主本山河内守義武の娘(桑府名勝志)。
伊藤 實俊、兵部少輔
寛政重修譜に「伊勢国桑名に住し、某年死す。法名伊足、今の呈譜懿則」とある。三之丞實信(1532頃〜1592頃)の父。官途からして實房の系かその子か未詳。實俊系参照。
伊藤 某 明西(〜1522)
大永2年(3年とも)晴雲寺の開基、伊藤武左衛門の族という。
暁意 二世(〜1572)
教意(〜1622)
宗安(〜1653)
恵休
恵林
伊藤 實清 一安 新八 實房嫡男。秀吉に仕え京都所司代。子孫断絶(伊藤家由緒書、桑名市郡城址考)。
伊藤 實倫、豊左衛門(1520〜1603または1542〜1625)
實房の男(桑名誌に次男)。東城主。3000石にて秀吉に仕える。文禄高麗陣に武功あり。後信雄に属す。
慶長五年(1600)氏家行広開城のとき使者となる。「名所図会」に関が原一乱のとき、桑名城は石田方なるゆえ、長島城より福島山岡等小野山に在陣して、桑名城主速やかに開城あるべき胸使者を持って申し送れり、そのとき實倫と伊藤兵左衛門長好(三崎地侍)がその命に応じて終に桑名城主氏家氏は香取村に立ち退き後若州に移ったという。
桑名城主本田忠勝の御覧に伝来の景清の冑・直垂の片袖を供す。寛永2年(1625)卒。 実倫の墓は仏眼院にあり。市指定文化財 3段、正面中央に「自性院殿秋天観智居士」両側に「慶長八癸卯年八月九日卒」(1603) 享年83伊藤 某 武左衛門
慶長19年(1614)、大阪陣の時当主桑名城主本多忠勝侯武左衛門由緒を知って大阪の役に召連れ軍功を励まし推挙して御家人にも結ばんとて四十八士の子孫各吟味あり備えに加えて出陣した。武左衛門大阪に至り鉄砲の音にはなはだ恐れて桑名に逃げ帰る。大臆病者とて本多侯疎み給いけれども、年久しく祖々此処に住するをもってそのまま置きたまう(勢桑見聞略志)
伊藤 実重 豊右衛門尉
伊藤 実元 右近丞
両名信長の永禄12年(1569)阿弥陀寺寄進に関する奉行文書(織田信長文書の研究)に見える(伊勢平氏8)
伊藤 實正(〜1582)、彦作
實房三男 信長に仕え、本能寺に信長生害の時殉死(伊藤家由緒書、桑名市郡城址考)。
伊藤 某、彦作(〜1582) 實倫の弟。信長に仕え本能寺にて討死。墳墓本能寺にあり。
伊藤 實直、豊左衛門(1573〜1659)
實倫の長男。信長に仕え、後本田美濃守に仕える。大阪陣の後は實倫の後を継ぎ、旧家をもって諸役を免ぜられる。
「名所図会」にこの人の代のとき火災のため景清の冑をうしなうという。
万治2年没、86才(桑名人物史)
味岡 某 次郎左衛門
総見院(信長)に仕えて伊勢国桑名郡小貝須村にあった。尾張川名村(名古屋市昭和区)の貝洲味岡翁七世の祖(角川人名辞典・愛知) 豊左衛門の族か
伊藤 實道 豊左衛門 実直長男 早世
伊藤 某 実直次男
伊藤 某、祐誓、實直の三男。法盛寺住持となる。
伊藤 實元、武左衛門(1608〜1674)
實倫の四男。寛永15年島原一揆のとき、桑名城主松平越州出兵があれば家士の列に加わらんとしたが出兵はなかった。延宝2年7月6日死、66歳 法号本覚院円月鏡照居士。
實元の子。
元和3年(1617)武士以外の帯刀禁止となったため、家の由緒軍役をつとむべき志を奏上。このため貞享元年(1684)帯刀御免、以来地侍として代々小網町(現春日町の一部。)に相続。元禄3年死、38歳
子孫は明治維新のとき士族に列す。
伊藤 實員、武左衛門(1676〜1701) 實次の子、元禄14死、25歳。
伊藤 實致、武左衛門(1659〜1725) 實次の弟、實員を継ぐ。享保10死、66歳
伊藤 實憲、武左衛門(〜1768) 小網町旧家、伊藤氏子孫。
伊藤 具俊 右兵衛尉 入道道恵
北畠具起(系不詳)の末子。文明年間(1469〜1486)の人。名古屋九十軒町に円明寺を開いた(角川姓氏人名辞典)というが、円明治はもと桑名山田村にあり、洪水のため名古屋へ移転して円明山台観寺となった(同寺縁起)。
![]() 丸にかたばみ |
上藤の丸 |
實俊流 |
| ◎伊藤實俊━━實信━━實以━━實重━┳實成─┬實久━━┓ ┗實久↑└女子 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣實利━┳實秀──實紀──實英━┳女子 ┣實清 ┣寅之助 ┣女子 ┣實勝 ┣實紀 ↑ ┣實乾━━督太郎━━豊之助──_吉 ┣満根 ┣實英 ↑ ┣女子 ↑ ┣女子 ┗女子 ┗銕次郎 │ ┗女子 今井三郎右衛門━━━平三郎━━━_吉 |
寛政重修譜に「伊勢国桑名に住し、某年死す。法名伊足、今の呈譜懿則」とある。三之丞實信(1532頃〜1592頃)の父。官途からして實房と同人かその嫡子かとみられる。
信長に仕える。長島一揆の時桑名城に篭ること3年、しばし敵と戦い数十人を討ち取り勝利を得て、賞として旧知を与えられる。その後秀吉の命により羽柴秀勝に属し文録元年朝鮮征伐に渡海して、彼国に戦死。51歳、法名妙翁
慶長19年(1614)召されて徳川秀忠に仕えて、書院番に列し、廩米300俵を給う。寛永10年(1633)2月7日、200石を加えられ武蔵国足立郡の内において采地500石を給う。
妻は藤懸美作守永勝女。正保元年正月2日死、61歳。法名常拳。貝塚の青松寺(東京都港区)に葬る。のち代々の葬地とする。
寛永20年(1642)11歳で家光に拝謁。正保元年(1644)12月25日遺跡を継ぎ小普請となり貞享4年(1687)7月10日致仕。
元禄6年8月7日死。61歳。法名蓮光
伊藤 實成、半三郎(1654〜1705)
貞享4年(1687)7月10日家を継ぎ、8月7日綱吉に拝謁。元禄2年(1689)4月29日書院番、8年10月21日桐間番、10年閏2月22日書院番に復す。
宝永2年6月24日死、51歳。法名常転
妻は朝比奈勘右衛門良豊女。
伊藤 實久、喜内(1663〜1738)
兄實成の嗣子。宝永2年8月晦日遺跡を継ぎ11月28日綱吉に拝謁。享保元年(1716)3月12日書院番。9年5月15日采地を改め廩米を給う。20年閏3月13日老を告げ番を辞し、黄金2枚を給う。元文元年4月27日致仕。
同3年正月18日死、75歳。法名道久
伊藤 實利、喜三郎(1699〜1757)
享保元年9月朔日吉宗に拝謁。元文元年4月27日遺跡を継ぎ、2年12月4日西城の小姓組に勤。
宝暦7年10月13日死、58歳。法名全栄。
伊藤 實秀、千之輔(1738〜1759)
宝暦7年12月27日遺跡を継ぐ。8年3月18日家重に拝謁。6月2日書院番。
9年2月28日死、21歳。法名了心
伊藤 實紀、吉之助(1744〜1762)
實利三男。宝暦9年5月7日15歳で遺跡を継ぐ。12年7月4日死、18歳。法名忠倫
伊藤 實英、幸之助、喜内、兵左衛門、幸左衛門(1745〜)
宝暦12年7月16日、17歳で甥實紀の遺跡を相続。廩米500俵。安永元年8月24日、西城小姓組。しばしば射的、放鷹に扈従し、鳥を射て時服を給う。7年7月10日番を辞す。8年7月10日書院番。
妻は小長谷九郎左衛門時尹女。のち杉岡彌四郎能次の養女と再婚
伊藤 實乾(さねかた)、金之丞。
實英の長男。母は小長谷氏。妻は牧村仁十郎利瑞女。のち森川久左衛門好篤女を娶る。
世々富田一色に住す。先祖は梶原景清の後裔桑名東城主伊藤兵部丞實房4代の子平右衛門より出た。製油を稼業として質屋両替、米穀肥料商を兼ね、豪家慈善家として世に知られた。伊藤家の商標は「山二」であり、当時「酒は剣菱、油は山二」の呼声が高かった(三重郡誌)。
伊藤 某 平右衛門 桑名東城主伊藤兵部丞實房4代の子。富田一色にて製油業を営む
伊藤 某 平次郎(〜1841) 幼名才助
平右衛門4代。温厚篤実にして慈善の心深く当地不良の時には金品を施して漁民を救助することたびたびであり、また八風道路の改修、施小屋の常設等公共事業にも力を尽した。
八風道路の改修とは大矢知富田一色間の隘路沿道の私田を買収して拡幅改修したもので、この功により天保10年5月郷士格を賜った。道路敷となった田租については明治2年公道として上地するまで毎年桑名藩へ4石2斗忍藩へ4石4斗を上納したという。
施小屋は八風道路の大矢知村入り口に常設して、窮民を助け不良少年を収容して感化した。
天保12年9月16日没
伊藤 平治郎 8代目 明治38年4月以来浴巾製造に従事した
味岡氏(桑名)
。
◎味岡平内━━(六代孫)民部━━(九代孫)正勝 桑名名勝志
味岡 某 平内
永仁年中桑名春日神社勧請三人のひとり(※)。紺紙金泥の記文を所伝した(寛政10年)。某年4月21日没。義岳宗範居士(桑名名勝志) ※「桑名雑志」に永仁4年(1296)7月17日
味岡 某 民部
平内六代孫。桑名地侍。氏家内膳桑名開城のとき説客四人のひとり。某年正月24日没。客翁為珎禅定門(桑名名勝志)
味岡 正勝 市左衛門
平内九代孫。川口西側住人。家名鶴屋。御本陣。旧地は内堀あたりであったという。旧宅の屋敷家造り絵図ほか旧記を伝持。紋はもと梅鉢であったが、越州公に遠慮して三つ巴に改める。(桑名名勝志)
味岡 某 戈右衛門尉 桑名郡三崎地侍のうち(桑名名勝志)
味岡 某 勘左衛門尉 桑名郡三崎地侍のうち(桑名名勝志)
味岡氏(名古屋)
名古屋の味岡氏はその祖味岡次郎左衛門が、総見院(信長)に仕えて伊勢国桑名郡小貝須村にあったという(角川人名辞典・愛知) 武左衛門の族であろう。
◎味岡次郎左衛門━━久右衛門━━某━某━某━某━某━━貝洲味岡翁 角川姓氏人名辞典
味岡 某 次郎左衛門
総見院(信長)に仕えて伊勢国桑名郡小貝須村にあった。尾張川名村(名古屋市昭和区)の貝洲味岡翁七世の祖(角川人名辞典・愛知)
味岡 某 久右衛門 次郎左衛門の子。尾張へ移転。
加島屋 久右衛門 清洲より久屋町(東区)へ移転
味岡屋 久次郎 寛永年間(1624〜1644)、一に寛文12年(1672)4月に分家して宮町(中区)に住んだ
味岡 某 九郎 久屋町住人。貞享5年(1688)川名村(名古屋市昭和区)味岡山香積院創建の本願主(尾張史)
味岡 某 次郎四郎
味岡山(あじおかさん)香積院(こうじゃくいん)は、貞享4年(1687)久屋町(現久屋大通あたり)の豪商味岡次郎四郎が一人娘の死を弔うために建立した曹洞宗の寺院。川名山町115。
http://www.showa.city.nagoya.jp/theshowa/mapshowa5.htm
味岡 某 貝洲味岡翁(〜1799) 次郎左衛門七世の孫。寛政11年歿。墓は川名村般若台(味岡山別院)にあった。