後藤氏
秀郷流藤原氏(尊卑分脈)、他に利仁流藤原氏とも言う。采女城主。幕号木瓜。加富田神社棟札に藤原方綱、藤勝の目あり(伊勢名勝志)。
桑名には桑部、額田、西別所を一家とする桑名後藤家(仮称)がある。采女家との関係は未詳。員弁郡の宇野城主後藤實重は後藤兵衛尉實基の次男民部尉の末葉という。泊には一族の敷井氏があった(旧城附)
尾張藩士後藤庄太夫重春は生国勢州枝村采女村といい(士林泝)采女城主の族であろう。
| ○後藤実基━┳基清━━基綱━┳基隆━━基秀━┳基秋━━基景━━基治 ┃ ┗女二階堂行景母 ┗基直 ┗民部尉・・・・但馬守・・・・實重 ・・・・采女正・・・・(基清14世孫)藤勝━━方綱 |
後藤 実基 (別伝あり)
元久の乱後本郡を管す(伊勢名勝志)。保元平治の合戦に武功あり。
後藤 基清 左衛門少尉
叙留従五位上。実基の養子。実は藤原仲清の子。(尊卑分脈)
承久の乱に京師に属し誅せられる(伊勢名勝志)
後藤 基清 左衛門尉 文治3年(1187)采女地頭(伊勢北郡諸士禄)
後藤 基綱 基清の子。関東に従い評定衆となる(伊勢名勝志)
後藤 基隆、伊勢守 基綱の子。従五位上。六原評定衆(尊卑分脈)
後藤 基秀、讃岐守、伊世守 基隆の次男、六原評定衆、伊世守山田郷地頭(尊卑分脈)
後藤 某、弾正忠、但馬守(〜1360)
宇野部の人。幕号木瓜。延文5年(1360)仁木義長に従い佐々木崇永と葛城山の戦いで戦死。實重の祖(伊勢北郡諸士禄)。
後藤 某、淡路守 女采、四日市女采城主(ママ、三重国盗り物語)
後藤 某、采女正
藤勝の先。寛正中(1460〜1466)、その妻その妻皇太神宮に百度参りを発心するも果たさず。嘆息して専修寺真恵上人に相談のところ、護符を授かり両宮参拝を達成することができたので、真恵上人に大いに帰依した。ところが、采女正がこの護符を見るに犬があった。采女正は「なんぞ我妻を畜生となす」と怒り、兵を率いて中山寺を攻めた。真恵は吉尾に走り、奄芸郡黒田村誓祐を頼り、根道(不詳)を高野尾上に至った。夜陰に所従知るところもなく所在なきところ、たちまち燈あり諸樹上に真恵を見たという(伊勢北郡諸士禄)。
後藤 某、采女正
采女城主。永録11年(1568)、織田信長に滅ぼされ城遂に廃す(伊勢名勝志)
後藤 藤勝、采女正(〜1572)
實基の14世孫。永禄11年(1568)族人實重と共に岐阜に下り、前列に属して高岡城を攻める。信長の命で関氏与力となる。元亀3年正月22日蒲生氏郷に従い戦死。法諡采女公殿四品釈成満大居士(伊勢北郡諸士禄)。
後藤 某 妥女守(ママ) 富田時春の実父(楠町史)
後藤 方綱 五郎兵衛亮(1538〜1584)
藤勝の子。天正12年5月6日美濃青野にて戦死。年35。法諡清冷院殿前四品釈天慶崇休大居士(伊勢北郡諸士禄)。
後藤 某 五郎兵衛 妥女城主(原文のママ、楠町史)
富田 時春 後藤妥女守(ママ)次男 富田家の嗣となる。後藤五郎兵衛の女を娶る(楠町史)
後藤 某女 後藤五郎兵衛の女。富田時春に嫁す(楠町史)
敷井 某 四郎 あるいは右京
後藤の族。泊の屋敷にに居住。羽木の棟札にありという。一本に弐井四郎、永禄の頃まで居住(旧城附)
後藤 實重、右馬允
宇野城主。後藤兵衛尉實基の次男民部尉の末葉。幕紋木瓜【勢陽五鈴遺響】
後藤 實貞、右馬丞 采女羽木城主(旧城附)
後藤 實重、民部丞 采女羽木城主(旧城附)
後藤 實重 右馬助
弾正忠の後。兵賦一千人。藤勝の同族。永禄11年(1568)族人實重と共に岐阜に下る(伊勢北郡諸士禄)。
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後藤 重治系(尾張藩士) 祖の重春は生国勢州枝村采女村。徳川家忠に仕えその後忠吉に奉仕。次いで敬公(尾張藩初代徳川義直)に奉仕。 |
| ┏方元━━━━┳正尚 ○後藤重春━┳彦左衛門──正重━╋正胤━方純 ┣方脩 ┃ ┣正近 ┗方教──方久 ┃ ┣女 ┃ ┣女 ┃ ┣女 ┃ ┗女 ┠親安━━━┳重安━┳重辰──重旧━━┳旧久 ┃ ┃ ┣明重↓ ┗女 ┃ ┃ ┗女 ┏盈清 ┠勝盛 ┣盈昌━━免清━━╋逸昌 ┃ ┣女 ┣女 ┃ ┣橋爪新八 ┣女 ┗腰山作兵衛 ┣明辰↓ ┗女 ┣市右衛門━━伝六 ┏矩忠 ┣半平 ┣甚之進 ┣吉矩━━正矩━━┻鍋助 ┣女 ┏徳治 ┗女 ┣重旧↑ ○┳村井貞勝 ┣徳言 ┗貞俊━┳新右衛門──明辰──明重━━╋女 ┣親安↑ ┣女 ┗勝盛↑━━勝貞━━重貞 ┗女 |
後藤 重春系
後藤 重春 庄大夫(〜1623) 生国勢州枝村采女村。徳川家忠に仕えその後忠吉に奉仕。冨永丹後守に属して関ヶ原の役に供奉。次いで敬公(尾張藩初代徳川義直)に奉仕。大阪役に竹腰山城守に属す。250石を領す。元和9.10.3卒
近藤 親安(〜1669) 庄大夫 実は村井新右衛門の子。重春の家領を継いで竹腰組に属す。寛文9年卒。
近藤 重安(〜1677) 庄大夫 親安の家領を継いで竹腰組に属す。延宝5年卒。
近藤 重辰(〜1720) 久大夫 重安の家領を継いで竹腰組に属す。享保5年8月卒。
近藤 明重 庄八 重安の子。村井明辰の養子となる。
近藤 某女 重安の子。藤沢新兵衛の妻となる。
近藤 重旧 庄大夫 実は村井明重の子。重辰の家領を継いで竹腰組に属す。
近藤 旧之 庄太郎 重旧の子。早世
近藤 某女 重旧の子
後藤 彦左衛門系
後藤 某、彦左衛門、号一波斎 重春の子。忠吉に召し出され御小姓、200石。後御馬廻
後藤 正重、牛之助、彦太夫、実は内藤左平の子。彦左衛門の遺跡を継いで御馬廻。その後御作事奉行となり加倍50石。寛文8年(1668)5月25日、御鉄砲頭となり、しばしば加増都合400石となる。貞享2年(1685)9月5日辞職して寄合となる。元禄元年(1688)10月致仕。
後藤 正胤 友右衛門 彦太夫 正重次男、(元禄元年(1688)10月)父家領を継いで御馬廻りとなる。元禄4年2月19日御供番となる。宝永2年4月29日御鉄砲頭となる。4年6月14日乱心につきその領知を公収される。
近藤 正近 与左衛門(〜1709) 正重の子。延宝6年6月14日卒
近藤 某女 松井市正の養女となり、小笠原藤太郎の妻となる。
近藤 某女 松井市正の養女となり、萩原左吉の妻となる。
近藤 某女 内藤善太郎の妻
近藤 某女 水野十左衛門妻
近藤 方元系
近藤 方元(1641〜1704) 友之丞 弥次右衛門 正重の子。綱義卿御部屋に召出され御小姓、禄を給う。寛文5年(1665)7月16日御歩行頭。9年、同五十人頭。延寶5年(1677)5月9日、同御書院番頭。天和3年(1683)9月晦日、同御用人となり500石を領す。元禄6年(1693)4月27日、300石加増、役亮200石を給う。7年2月4日200石加増、役料を減ず。9年3月11日200石加倍。同年7月29日御側同心頭となり同心7騎を預かる。11年3月21日加倍300石。14年11月9日加倍300石、都合1800石。宝永元年10月18日卒、享年63。
近藤 正尚 市之助 新次郎 方元の子。病により家領を継がず。
近藤 方脩(〜1712) 友之丞 方元の子、宝永元年(1407)11月29日父家領の内1500石を賜い寄合となる。6年12月朔日御小姓となる。正徳2年8月14日卒。
近藤 方教(〜1742) 幾之丞 弥次右衛門 兄方脩卒後家領の内700石を賜い寄合となる。享保4年10月9日御目付となる。5年7月23日御側足軽頭となる。16年(1731)9月19日五十人頭となる。17年11月国丸主御奏者となる。元文3年(1738)2月御書院番頭。寛保2年9月10日江戸にて卒。
近藤 方久 勝弥 実は山下左左衛門男。養父家領の内400石を賜い寄合となる。延享元年(1744)12月宗睦卿に属し御小姓となる。
藤原秀郷の子孫で、白河院武者所に属していた藤原実信の子。兵衛尉と称する。
平治の乱では源氏方に属して活躍。乱後源義朝の娘(のちの一条能保の妻)を京都で育てた。
1180年源頼朝の挙兵に応じ、屋島の戦いなどで戦功をあげている。(朝)
「眼は鼠眼にて、ただ候ふべきのところ、任官稀有なり」とされた後藤兵衛尉基清http://homepage2.nifty.com/mazzn/nezm.htm
後藤基清…左兵衛尉。父・仲清は摂政家随身。叔父・義清は鳥羽院北面の武士で、出家して「西行」を称する。
元暦元(1184)年
屋島へ向けて行軍を開始した。夜を徹しての強行軍で、19日の午前8時には屋島の内裏の対岸に到着した。義経は牟礼、高
松の民家に火をかけて攻撃を開始した。平氏方は背後から源氏の大軍が押し寄せて来たものと錯覚して、安徳天皇や平宗盛ら平氏一門の
人々は、慌てて屋島の陣営を放棄して、船に乗って海上に逃れた。義経は田代信綱、金子家忠、同近則、伊勢義盛らを率いて汀に馳せ向
かい、海上の平氏軍との間に矢を射合う激しい応酬となった。その間に佐藤継信・忠信兄弟、後藤実基・基清父子らは、内裏や宗盛以下
の陣営を全て焼き払ったので、「黒煙天にそびえ、白日光をおおふ」という在様であった。しかしこの戦いで、義経の奥州以来の有力家
臣佐藤継信は戦死した。
元暦二年(一一八五)五月小十七日己亥 卯尅左典厩〈能保去七日與廷尉同日出京〉到著直被入營中昨日極熱之間聊有霍亂之氣逗留之由被申之〈云々〉昨日左典厩侍後藤新兵衛尉基清僕從與廷尉侍伊勢三郎能盛下部闘亂是能盛沙汰餉之間基清馳彼旅舘之前其後所令持旅具之疋夫等進行之處能盛引馬踏基清之所從仍相互及諍論此間基清所從取刀切件馬鞦手綱奔行能盛聞此事馳出竹根引目射所殘之疋夫彼等令叫喚馳騒基清又聞之廻駕與能盛欲決雌雄典厩頻抑留之被發使者於廷尉之許廷尉又被相鎮之無爲〈云々〉此事典厩強雖不訴申自達二品聽能盛下部等成驕之條竒恠之由御氣色甚〈云々〉 腰越状の段
文治3(1187)年3月30日の「公卿の勅使伊勢国駅家の雑事、勤否の散状の事」をみると、基清が河口(現在の三重県一志郡川口)の地頭となっている。
「和名抄」に、東鑑、建久6年(1195)条、丹後伊称(伊根)保、地頭後藤基清、伊称荘又見田数目録とある
正治元(1199)年2月17日に、源通親襲撃を計画した罪により逮捕された後藤基清以下3名は、3月4日、武士によって鎌倉に護送された。また、鎌倉側は、3月5日付けで、後藤基清の讃岐国守護職を罷免した。
その後、22日になって、鎌倉側が3名の受け取りを拒否したとの風聞が流れ、在京の関係者は、これは3名ともども斬罪に処せられるのではないかと危惧し、情報の収集につとめている。
久十年(1199)三月小五日丁酉雨降 後藤左衛門尉基清依有罪科被改譛岐守護職被補近藤七國平幕下將軍御時被定置事被改之始也〈云々〉
正治二年(1200)二月大廿六日壬午晴中將家御參鶴岡八幡宮御除服之後初度也於上宮被供養御經導師辨法橋宣豪〈云々
御劔役 後藤兵衛尉基綱
後衆廿人〈束帯布衣相交〉 後藤左衛門尉基清 と見える
元久2(1205)年7月19日、執権として幕府の実験を握っていた北条時政が、突然、出家させられ、伊豆に押し込められる。鎌倉の政変は京にも波及した。26日払暁、実朝の命を受けた五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱ら在京の御家人たちが、謀反の罪を以て、京都守護・平賀朝政を六角東洞院第に襲い首級をあげた
建暦三(1213)年八月、後藤基清が藤原定家細川荘に対して違乱(横領)
●建保六年(1218)正月十二日正月大十二日甲申晴後藤大夫判官基清飛脚自京都參著申云去三日白河邊有謀叛者基清即行向追捕之處郎從等多以被疵然而遂梟件賊主是伊勢平氏餘流掃部權助正重〈云々〉依有驕奢擬申鳥合者也
基清は承久の乱の際、後鳥羽院に味方して滅亡
承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった承久の乱は、鎌倉幕府の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へ、六条宮は但馬へ、冷泉宮は備前に流されることになった。そして幕府の命によって、後鳥羽上皇の兄で天皇位についていない行助入道親王が還俗されて後高倉院となり、形ばかりの院政を行わせ、仲恭天皇が廃して行助入道親王の子茂仁王を即位させ、後堀河天皇とした。さらに、乱の首謀者とされた藤原光親・宗行、一条信能らの院近臣や、後藤基清・五条有範らの在京御家人はとらえられて斬殺されるなどの処分が加えられた。そして、院方の所領は没収され、京都には六波羅探題が設置されて朝廷に対する監視が加えられることになった。こうした事態は、朝廷に関わる人々にとっては大きな衝撃であり、保元の乱以来巻き起こってきた「武者の世」の到来を痛感することとなった
●建保六年(1218)六月二十七日廿七日丁卯晴將軍家任大將御之間爲御拜賀參鶴岳宮給畢早旦爲行村之奉觸申可有御拜賀之由於下向雲客等申斜有其儀先出御南面文章博士仲章朝臣〈束帶〉上御簾陰陽少允親職〈束帶〉參車寄間候反閉陰陽權助忠尚〈束帶〉入廊根妻戸勤御祓伊豫少將實雅寄御車出御南門西行
(後藤左衛門尉基綱が見える。)
後深草天皇の建長2年(1250)鎌倉幕府は、地頭が社寺の所領を変更することを禁止した。当時、丹波の荘の地頭は後藤基清の子孫で後藤基綱であった。
基清の子基任が関東方に属して宇治川合戦に勲功を立てたため、北条泰時・時房から播磨北東部の安田庄内に所領を与えられ、播磨に根付いた。このとき鎌倉幕府から拝領した安田・中村・曾我部の三ヶ郷(兵庫県多可郡中町)は、以後播磨後藤氏の本領として相伝されていく。南北朝の動乱期は足利尊氏に従い、赤松円心・則祐父子と組んで戦ったが、赤松氏の領国支配の浸透に伴って家臣団に組み込まれていった(兵庫県史3など)。この播磨後藤氏は代々実名に「基」の一字を使用しており、美作後藤氏(則季)とは同族別系だった
後藤基信 1435〜1519年
赤松氏の重臣後藤氏の当主。伊勢守を名乗った。法名は通源宗勝禅定門(書写山十地坊過去帳)。神東郡蔭山庄の太尾城(兵庫県神崎郡福崎町)を居城としたという(赤松家播備作城記)。また、同地八千種の春日山城に拠ったともいわれる(松本多喜雄氏『播州後藤氏の栄光』)。