朝倉、持福、茂福氏
余吾将軍平惟茂の後、城太郎助永の後胤。本貫は三河国。幕紋ニ引両。保々西城・市場城・茂福城・中野城の城主。
末流に鍋坂新田里正小兵衛あり。また塩浜には昭和初期朝倉敬太郎があった。
茂福の城兵に小川勘右衛門、林玄證、日沖正済、日置八郎、多々木太郎左衛門らがある。
城氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけての越後国の豪族。桓武平氏の一流で、余五将軍平維茂の子繁成が出羽(秋田)城介だったことから、その子貞成以降城氏を称した。源平争乱期に城氏は平家方に属して木曽義仲と対立し、そのさなかに資永が病没すると弟の四郎長茂が一族を束ねたが、ついには源氏に降った。長茂は源頼朝のもとで奥州征伐に加わるなどして「免許」されたとみられるが、頼朝の没後上京して再び源氏打倒をはかって挙兵したが失敗、吉野で討ちとられた。長茂に呼応して本国で挙兵した資永の子資盛らも幕軍に鎮圧され、一族のほとんどが滅亡してしまった。
寿永元年(1182)木曾義仲が越前入国の時、当地の平氏敗亡して越後守助永は病死。助光は北国にて安堵ならず、 伊勢国茂福村に移住。10代相続して朝倉盈盛茂福村を領有するとも、また一説に元弘建武の役(1333)に足利家に属して功あり、茂福村を賜うとも言う(三国地志)
また石垣蔵人(1378〜1450)は父母の勘気により、世間一覧のため上洛のところ、勢陽北畠幕下朝明郡保々城主朝倉豊前守義遠在京の隣家に宿り、余暇に談笑友誼を交わした。豊前守帰国に同伴し、保々荘を預り、その後荘内の住人となった。永享12年(1440)3月、田畑1500貫文を下さる(小川重太郎稿)といい、これ以降両家の婚姻により朝倉家は石垣家の出自の城氏を冒冠のかもしれない。よって市場村庄屋石垣家は同族である。
持福主税助(朝倉備前守)、平氏、四日市蔵(ママ)福城主、又右衛門、新之丞、北勢四十八家。同家縁者に山口氏がある。(三重国盗り物語)
| 出羽介 城 ◎平維茂━━繁成━━貞成━━永基━┳永家 ┣永成 助永 ┏助盛 ┗資国━┳(長用)━╋助家 ┣助職 ┣助正 ┗長茂 ┗助光?・・・・朝倉盈盛 |
一に越前朝倉氏と同族とも言う。孝徳天皇の後。越前朝倉氏ははじめ日下部氏を称して、平安末但馬国養父郡朝倉に住み朝倉氏を称した。南北朝の時広景が足利方の斯波高経にしたがい越前に転戦して、坂井郡黒丸に住み守護斯波氏の被官となった。孝景のとき斯波氏の内紛に乗じて越前一国を支配して一状乗に城を築いた。文明3年(1471)越前守護。義景の天正元年(1573)織田信長のため滅亡(角川日本史辞典)
高清のとき平家方に一味して所領没収されたが後に赦され安堵した。伊勢の朝倉氏はこのときに移住したのものか、または広景のとき元弘建武の役(1333)に足利家に属して功あり、盈盛が茂福村を賜うとも言う。
| ◎孝徳天皇━━有間皇子━━日下部表米━━都牟子━━荒島━━治長━━國當━━國守━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣乙主 ┏清秀 ┣禰貞 ┣清重 ┣在麻呂 ┏則方 ┣清尋 ┣乙長━━━磯主━━貞禰━━利實━━用樹━━蕃在━━親安━━弘佐━┻佐晴━╋清奉 ┣田丸 ┗朝倉宗高━┓ ┣藏増 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗藏継 ┗高清━━安高━━信高━━宗信━━信泰━━茂秀━━宗直━━広景━━高景┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗氏景━━貞景━━教景━━家景━━敏景━━貞景━━孝景━━氏景━━義景━┳阿君丸 ┗愛王丸 |
茂福城主。余吾将軍平惟茂の後、城太郎助永の後胤。元弘・建武の乱(1331〜36)に功あり、足利家より茂福を賜る。(桑名志)
朝倉 茂盛、下野守 茂福城主。
朝倉 某
文中元年(1372)3月大矢知城の南部左京亮頼勝が叛き、仁木義長に与力したので、北畠顕信は朝倉・見永七朗らに大矢知城を攻めさせたが破れ、茂福城に篭城。国司は大宮入道親子に2000余騎の兵を送りこれを討つ(北畠暦記)。
享徳2年(1453)、泊浦代官職を競望した守護一色義直が国内に軍勢を催促、十ヶ所人数・北方一揆もこれに応じたが、醍醐寺および泊浦代官九鬼愛如意丸を支援する細川俊元により、11月16日朝倉常英を通じて十ヶ所人数・北方一揆に出陣を取りやめさせた。(山田城址発掘調査報告書)。朝倉常英もこれより先10月28日に出陣を取りやめている。
康正元年(1455)、朝倉備後は近江永源寺領守忠名の公文吉原貞次の私領を横領し訴えられた。幕府は私領を永源寺含空院領として安堵した(四日市市史)。
保々城主。長録元年丁丑(1457)12月2日卒。法号大樹寺殿。塔婆当寺に現存。紋所三槿木瓜、又形の内に剣カタバミ(桑名志)
弘治3年(1557)関盛信が前進砦を朝明郡中野村に築いて中野藤太郎を城主として、同郡西村城主朝倉詮眞と気脈を通じるという(鈴鹿郡野史)が年代合わず。しばらくここに置く
「旧城跡附」に詮貞とする
朝倉 某、備前守
保々城主中野殿。長録元年丁丑(1457)10月2日卒。大樹寺殿俊翁英公(三国地志)朝倉 義遠 豊前守
石垣蔵人(1378〜1450)は父母の勘気により、世間一覧のため上洛のところ、勢陽北畠幕下朝明郡保々城主朝倉豊前守義遠在京の隣家に宿り、余暇に談笑友誼を交わした。豊前守帰国に同伴し、保々荘を預り、その後荘内の住人となった。永享12年(1440)3月、田畑1500貫文を下さる。
保々城主。妻石垣城左衛門忠平資氏女(小川重太郎稿)
朝倉 某、兵庫 「十ヶ所人数」
保々城主。龍雲院殿前兵部个翁禅定門(桑名志所引大樹寺位牌銘)
保々城主中野殿。龍雲院全翁吾公(三国地志)
朝倉 某、備前守
保々城主中野殿。長学院先天稟公(三国地志)
長慶院殿前備州太守天稟公大居士(桑名志所引大樹寺位牌銘)
保々城主。前兵部久随長公大禅定門(桑名志所引大樹寺位牌銘)
保々城主中野殿。久隠長公(三国地志)
朝倉 某、能登守 妻石垣蔵人平資良女
朝倉 某、小十郎 妻石垣城左衛門忠平資氏女
茂福城主。平氏。
文明7年(1475)2月、三河国神戸地頭職として神役10貫文を毎年内宮に納入することを約す。朝倉 貞茂、勘解由左衛門尉
茂福城主。
文明9年(1477)、病気のため養子阿茶丸に所領を譲らんとして伊勢貞宗の内諾を得た。
盈豊の伯父。永禄の末ころ、主人盈豊亡き後の茂福城は一益の2000騎に攻められ伯父宗貞が城兵380人余りを率いて防戦したが残らず討死した(桑名志)。
朝倉 宗棟
茂福城主。保々大樹寺蔵文明14年(1482)大般若書軸に「願主下野前司沙彌宗棟」といい、異本親元日記に「文明十五年伊勢国朝明郡朝倉下野入道云々」という(三国地志)
朝倉 維俊、下野守
宗棟の子。保々大樹寺蔵文明14年(1482)大般若書軸に「大願主下野守平朝臣維俊、是宗棟ノ男」という(三国地志)
永禄10年(1567)2月、滝川一益の北勢侵攻により、茂福左衛門尉は諸城主とともに降伏。
茂福 政光 掃部介 (桑名志)
茂福城主。元亀2年(1571)、城主盈豊は一益のため長島城に呼び出され、殺害された。「桑名志」には永禄の末ころという。このとき家臣小川勘右衛門宗春がその首を奪い返し、保々村大樹寺を頼り葬るという。石碑に「円宥院殿喜圀大居士」という。
茂福 光豊、下野 永録11年(1568)長嶋にて討死(桑名志)
朝倉 平 盈譽 掃部介(旧城跡附け)
茂福 某 掃部介 南部治部少輔の兄という。木造具政が信長に寝返った時、北畠軍大将のひとり(伊勢輯雑記、下笠田項)
光豊の子。林玄澄の養育。慶長5年(1600)本田家に仕えるも、藩主姫城へ入封の時、茂福村へ帰村。(桑名志)
林、某、小兵衛 松山候に仕える(桑名志)
林、某、与右衛門 代官(桑名志)
茂福 某、五左衛門 与右衛門の子
文化年間、員弁郡鍋坂新田の里正。持福下野守嫡流四十代という。紋所甲の鍬形に剣カタバミ。松平越中守の命により持を茂と改名。
持福掃部頭寺念の阿弥陀像を奉尊。伊勢輯雑記
弘化頃、員弁郡鍋坂新田の人。郭前に立石があった。大井田光明寺門前よりここまで26町36間2尺と言う(北勢雑記、大井田項)、小兵衛の子か孫の代の人。
茂福氏の跡、滝川一益の目代として茂福城に置かれる。「五鈴遺響」に余吾将軍平惟茂の後とするは、城主朝倉氏との混同であろう。山口氏はもと尾州星崎城主。多々良氏。後の牛久藩主の祖。
元亀三年(1572)六月晦日、茂福城主山口次郎四郎は羽津六代目国虎を饗応に招きこれを毒殺した。
朝倉 敬章
朝倉備前守の後。明治11年藤谷傳氏について算数、又大賀賢励について漢籍の素読を学んだ。日清戦争に応召従軍の後保々村収入役助役など歴任。43歳で無くなる(地方発達氏と其の人物)
朝倉 敬太郎(1897〜)
敬章の長男 昭和10年現在四日市市塩浜町磯津に住居して区長、磯津信用組合長を兼任する(地方発達氏と其の人物)