天春・甘糟・中野・保々氏

 中野城主。田原忠綱の後胤田原景信三重郡赤堀村に居城。その末孫中野村に居住して中野藤太郎秀基と称す。信長北勢乱入の時滅亡。嫡男九郎左衛門甘糟氏を冒して保々村に潜伏する。これより保々士(サムライ)と称す。文録以来家督の者は領主代官役等代々勤める。

田原    中野    甘糟
○景信・・・・秀基━┳九郎左衛門(保々氏祖)
            ┗女
              │
◎天糟九左衛門━┳昌秀━━文右衛門━━文右衛門━━文右衛門━┓
            ┗浄念                            ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣藤兵衛━━┳
天春昌重━┳彌太郎
┃       ┃       ┣文次郎      ┏昌良━┳千太郎━━文雄   
文篤
┃       ┃       ┣銀五郎      ┃     ┗文五郎 
┃       ┃       ├文太夫      ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
┃       ┃       └昌信━━昌喬──敬雄━━昌栄──度━━昌業━┛
┃       ┗藤吉━━━┳藤吉━━━━
天春藤吉━┳藤吉
┃                ┃                ┗文三郎
┃                ┗
天春定右衛門━━文吉
┗平右衛門━━平右衛門━━平左衛門━━平右衛門━━平右衛門  
天春家文書(四日市史史料)・小川稿

中野 秀基、藤太郎

 田原景信の末孫。孫ともいう。天文中(1532〜1555)中野に築城。信長北勢乱入の時滅亡。娘は天糟昌秀に嫁いだ。

中野 某、藤五郎
中野城主(桑名雑誌)

中野
天糟 某、九郎左衛門

 秀基の嫡男。信長北勢乱入の時、天糟(母姓か)を冒して保々村に潜伏した。

天春家歴代

天糟 某、九左衛門(1533〜1594)初代
 保々村住人。文録3年卒、寿62。景信の子孫
天糟 昌秀、文右衛門(1560〜1602)二代
 荘司。慶長7年卒。寿43。妻は中野城主赤堀秀基の長女。
天糟 某、孫左衛門(〜1626)、釈浄(乗)念
 昌秀の舎弟。天和2年(1616)寺に入る。中野村行円寺(四日市市中野町1114)開基。寛永3.10.5寂

天糟 某、文右衛門(1584〜1656)三代、寿72
天糟 某、文右衛門(1608〜1688)四代
 保々郷荘司。正保4年(1647)〜寛文9年(1669)庄屋役。寛文11年6卒。寿64.室(1615〜1688)元禄元.12.17卒。
天糟 某、文右衛門、(1636〜1713)五代、幼名猪之助
 寛文9年(1669)〜元禄11(1698)庄屋役。元禄年中(〜1704)次男平右衛門を召し連れ西条へ隠居。正徳3.12.12卒。室(1642〜1712)は三重郡上海老原村加藤半兵衛方。正徳2.11.20卒。寿71。
天糟 某、藤兵衛、(1670〜1745)六代、幼名彦三郎
 元禄12(1699)〜享保6(1721)庄屋役。享保6年(1721)、次男藤吉を召し連れ北へ隠居。延享2.11.29卒。寿76。諡浄和。
 室は三重郡下鵜川原村、森藤兵衛方。諡妙久。

天春 昌重、文右衛門(1701〜1770)七代、幼名初之助、諡道寿
 中野村住。享保6(1721)より庄屋役。元文3(1738)より大庄屋役。
 寛保元(1741)8月員弁郡南筋支配御代官に召抱えられる。9人扶持。宝暦6年(1756)より三重郡支配兼帯。
 松平下総守代官(学海附言、桑名藩士分限帳にあり)。員弁郡高柳村四郎五郎新田(延亨2年)、同郡鍋坂新田(延亨3年倅四郎五郎名目)、大仲新田(宝暦3年、倅四郎五郎ほか名目)、朝明郡保々村新田(享保20・1735)を開発し大功あり。保々村新田天春と改める。明和7.8.26、代官役勤中卒 
 鍋坂新田に先祖を祀る開基堂を開き、また煙滅の危機にあった藤原の古刹聖宝寺の保存に尽力したため、宗徒はその徳を称賛して宝暦9年文右衛門の寿像を寺中に掲げた(聖宝寺に現存)
 室名由留(〜1779)は員弁郡高柳村(大安町)荘司瀬木長太夫女。安永8.12.27卒。諡妙寿
 妾名麻幾(1707〜1796)は員弁郡五反田村(桑名市)の人。よく家事を助けて当家に功あり永く祭るべし。寛政8.8.15卒。寿89。諡妙玄
天春 某 文太夫
 七代目文右衛門昌重養子。寛延2年(1749)6月より御代官見習3人扶持。病身につき実家にて養生したが快癒の見こみなく、宝暦元年(1751)6月永々暇となる。
天春 昌信、文兵衛(1735〜1798)八代
 七代目文右衛門昌重養子。実は美濃国瀬古村荘司森川勘兵衛の末男。宝暦2年(1752)10月より御代官見習2人扶持後3人扶持。明和7年10月亡父文右衛門跡目相続。
 安永6年(1777)2月御切替に付き代官役御免代官格となり、10月暇を下さり、終身2人扶持下さる。寛政10年8月11卒、64歳。諡道誓。
天春 昌喬 四郎五郎(〜1782) 九代
 中野村荘司。寛保元(1741)庄屋役仰せ付けられる。天明2年8月13日在役中病死。諡道諄。
天春 敬雄 四郎五郎(1756〜1797) 十代
 実は朝明郡小牧村荘司国保彦右衛門男。天明3(1783)年庄屋役、天明5年代庄屋格。寛政3年(1791)代官役、朝明郡筋支配。翌年代官役取り上げ。寛政7年9月晦日卒、年40.諡智道
天春 昌榮、四郎太郎、四郎五郎(1791〜1813) 十一代
 寛政3年(1791)8月大庄屋格をもって庄屋役。文化10年正月4日在役中病死、年23、諡道元
天春 度 九郎右衛門(1777〜1859) 十二代
 実は朝明郡豊田一色荘司大塚八五郎男。文化10年(1813)正月庄屋役、苗字帯刀御免。文化14年8月大庄屋格。同月代官役、6石2人扶持、朝明郡筋預かり。その後代官格、代官役繰り返し。
 安政年9月2日卒、年82、諡智海

天春 昌業 四郎五郎、九十郎(1820〜1882) 十三代
 文化14(1817)年8月、大庄屋格をもって庄屋役。「小川稿」に「郡邑数多の紛擾を媾解し、民間に益するところ尠なからず。傍ら家産を増殖し其功績最も大なり」という。
 明治19年7月30日卒、年67、諡道晃。
天春 昌良 文兵衛 文衛(1847〜1927) 十四代
 弘化4年11月9日生。萬延元年12月庄屋役見習。
 明治維新を経て明治23年第一回衆議院議員当選。25年衆議院議員再選。30年貴族院議員に凭身。同年貴族院議員再任。37年任期満了して衆議院議員に三選。
 明治39年4月1日勲四等旭日章拝受。
 大正2年開基堂に天春文右衛門碑(西園寺公望篆額、馬渕太郎撰、矢土錦山書)、十三層石塔を建立。
 昭和2年8月25日卒、法号積徳院釈順道
天春 千太郎(1884〜) 十五代
 文衛長男。明治17年5月7日生。
 妻は大井田藤田謙長女方子、明治25年生。

天春平右衛門家  中野村年寄

天糟 某、平右衛門
 五代文右衛門次男。元禄年中(1688〜1704)父文右衛門と西条へ分家。正徳元(1711)中野村組頭。享保12(1727)肝煎。元文中御役御免。
平右衛門(2) 寛保元(1741)頃より寛政5年(1793)まで肝煎
平左衛門 寛政9年(1797)より文政5年(1822)まで肝煎
平右衛門(〜1853) 文政5年より肝煎。天保13年(1842)より年寄役、嘉永6年10月在役中死去
平右衛門 嘉永6年11月年寄役

天春藤吉家  中野村百姓

天春 某、藤吉、幼名彦三郎
 藤兵衛(六代目)次男。享保6年(1721)、父藤兵衛と北へ別家
藤吉(〜1777) 宝暦12(1762)8月御箆刀(しない)御用。安永6年6月病死
藤吉(〜1815) 安永6年家督相続御目見。文化12年4月病死
天春藤吉(〜1847) 文化12年家督相続御目見。文政9年12月苗字帯刀御免。弘化4年正月病死
天春藤吉 萬延元年12月上金をもって代々苗字帯刀御免。

天春 定右衛門 茂右衛門(〜1854)  藤吉末。文政9(1826)年12月苗字帯刀御免、安政元年8月病死
天春 文吉 萬延元(1860)12月 苗字帯刀御免

天春 文三郎  兄藤吉方同居 元治元年(1864)7月上金のため苗字帯刀御免

 

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