
田原・俵・赤堀・羽津・浜田氏
家紋は三頭左巴、幟標は庵内八十方。藤原秀郷の孫足利孫太郎忠綱が治承の役に宇治川先陣の功により上野国赤堀荘を賜わる。その子孫景信のとき伊勢栗原に築城滝氏に仕え赤堀を称す。子息を羽津と浜田に置き、赤堀三家と称された。また中野城主赤堀藤太郎もその族という。藤太郎の子孫は甘糟(天春)姓を冒して保々村に残った。
「旧城跡附」に赤堀、後藤肥前守、国高、某刑部大輔源蔵と見えるが不詳。肥前守はあるいは羽津宗慶か。采女に後藤家あり。
家来に黒田一族がある。また霜野城の見永氏も赤堀氏の家来という(三重国盗物語)。また国虎家臣に森氏と岩田縫殿右衛門がある(小川稿)。
愛知県犬山市の針綱神社神主は弘安6年(1283)赤堀藤太郎事幸が伊勢国赤堀村より移住という。ただし、伊勢の赤堀は応永中(1394〜1428)田原孫太郎景信が上野国赤堀郷より来住したというので伝が異なる。また尾張藩士赤堀庄右衛門はもと伊勢赤堀衆という。また上野赤堀郷より水野家に出仕してのち尾張藩に仕えた赤堀網豊もある。(尾張国神職諸家系図)。阿波藩士赤堀氏の祖中野又兵衛は伊勢赤堀村に居住して織田家に仕えたという(蜂須賀家文書)
| 上野赤堀氏(赤堀村史他) ○秀郷━━千常━━文脩━┳文行 足利 ┏成綱 ┗兼光━━頼行━━兼行━━成行━┻家綱━━俊綱┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣忠綱━━忠広 ┏景綱━━教綱━━藤綱━━顕綱━━邦綱━━広綱━━親綱┓ ┗赤堀泰綱(康綱)╋定綱 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗宗綱━━時綱 ┗政綱━━光綱━━景綱━━景秀━━時秀┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗綱歳━━綱久━━秀賢━━秀隆━━秀信━┳秀永──秀当三十代 ┗秀当↑ |
| 四日市市史(旧)赤堀三家系図 他 足利又太郎 田原肥前守 赤堀城主・田原孫太郎 ○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐ ┌──────────────────────────────┘ │羽津右衛門大夫 大膳亮 上総介 肥前守 因幡守 右京亮 ├──盛宗─┬─宗久───宗善───宗慶───宗昌───近宗(国虎) │ (国虎) └─中野城主俵藤太郎(天春氏祖) │赤堀民部介 冶部少輔 肥前守 ├──景宗───具氏───景冶 │浜田美作守 紀伊守 近江守 └──忠秀───藤綱───元綱───重綱 |
平安時代中期の武将。藤原北家の魚名の後裔で、下野大掾村雄の子。母は下野掾鹿島の女。幼いころ京都の近郊の田原の地に住していたことから、別名「俵藤太(田原藤太)」と呼ばれる。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下、下野守兼武蔵守、鎮守府将軍。これにより勢力を拡大し源氏、平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。『ウィキペディア(Wikipedia)』
俵藤太の冑と百足退治をした太刀は赤堀村に伝えられたが煙滅を恐れ、冑は堀木村産社へ、太刀は後裔山田御師深井氏に奉納された(五鈴遺響)。この太刀には祠官度会未顕撰文、伊勢の書家蒔田必器書「宝刀行」墨帖一冊がある(善補樂工房蔵)
応永年代(1394〜1428)田原藤太郎藤原秀郷の子孫田原孫太郎景信が上野国赤堀郷より伊勢国栗原に来住。赤堀と称し、長男右衛門大夫盛宗を羽津に、三男美作守忠秀を浜田に配置した。
永禄二年(1559)、塩浜合戦。工藤の長野勢が塩浜に上陸、浜田・赤堀と合戦。両家は長野勢を撃墜。赤堀・浜田合戦、茂福氏の赤堀合力に北畠氏が感状を残す(三国地誌)。
永禄三年(1560)、茂福合戦。関氏の北征に先んじて羽津勢は挙兵し、神戸与力の茂福城にせまる。茂福城には富田の南部氏、萱生の春日部氏、柿の沼木氏が篭城。羽津勢には関氏の白子・鹿伏兎勢が加わった。さらに神戸勢は船で富田・富田浜に上陸、茂福勢を助けて、垂坂山麓の幣我野に戦い、ついに羽津・関勢が敗走(旧四日市市史)。赤堀家は神戸弥三の次男となったため永禄の中頃、伊勢波瀬の御所与力矢川下野守・阿曾傳五右衛門が押し寄せたが寄せ手が落ちたため引退した(旧城跡附)。
元亀二年(1571)、茂福落城。茂福城主盈豊は織田信長の臣滝川一益のため長島城に誘殺され、さらに茂福城は攻め立てられ落城。山口氏が一益の目代として置かれた。
元亀三年(1572)、羽津開城。羽津城主近宗は茂福城目代山口氏の饗応に毒殺され、羽津城はすかさず山口氏に攻められ 家臣はやむなく開城。滝川新左衛門を城主とした。天正元年(1573)、阿倉川合戦、浜田家の軍は大挙して阿倉川城近くに城主舘氏と戦い威勢を示した。
天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。
(旧四日市市史)
赤堀宗家
| 四日市市史(旧)赤堀三家系図 他 足利又太郎 田原肥前守 赤堀城主・田原孫太郎 ○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐ ┌──────────────────────────────┘ │赤堀民部介 冶部少輔 肥前守 ├──景宗───具氏───景冶 |
上野国住人、桑名志に忠広に作る
赤堀 某、下野守
上野国住人。伊勢国勾御園の元地頭職。(四日市市史所引観応三年(1352)四月五日「足利義詮袖判御教書」)
赤堀 勝謂、三郎左衛門入道
上野国住人。文和二年(1353)七月十三日、上野国赤堀郷・貢馬村、伊勢国野辺御厨地頭職を安堵。(四日市市史所引早稲田大学赤堀文書)
赤堀 直綱、民部少輔
応永三年(1396)十一月、久我家石榑領の代官職を請け負う。(四日市市史所引久家家文書)。
田原 景信、孫太郎
上野国住人、応永年間(1394〜1428)、伊勢国栗原に築城、赤堀と称す。(旧四日市市史)
赤堀 某、三郎左衛門尉
応永十八年(1411)九月十日、伊勢守護土岐康政の被官として智積御厨の沙汰し付けを命ぜられる。(四日市市史所引醍醐寺文書)
赤堀 某、孫次郎
応永廿年(1413)四月十三日、室町幕府より前年十一月廿七日の安堵に引き続き、伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵。(四日市市氏所引国会図書館足利時代文書)
赤堀 某、兵庫入道
応永廿五年(1418)十二月廿五日、伊勢守護土岐持頼の被官として智積御厨の沙汰し付けを命ぜられる。(四日市市史所引口宣綸旨院宣御教書案)
田原 某 肥前守 赤堀国虎の弟。文明2年(1470)栗原に築城、赤堀と改め姓とする(伊勢北郡諸氏禄)
赤堀 具氏 治部大(一に少) 赤堀嗣子。実は神戸具盛の第2子(伊勢北郡諸氏禄)。
赤堀 某、牧月斎
天文十三(年(1544)十一月、連歌師宗牧を栗原の城に迎えて連歌会を興行。(東国紀行)
赤堀 秀信 肥前守 (宿野小澤氏系図) 朴月齋入道
赤堀 某 朴月斎入道 俵藤太21代目(旧城跡附)
赤堀 某 越中守 永禄11年(1568)2月岐阜に属して前列に加わり高岡城を攻める(伊勢北郡諸氏禄)。
赤堀 秀定 佐太郎 (旧城跡附)
赤堀 某 右衛門 縄生の城主(勢桑見聞略史)
羽津家
元祖下野(ママ)国赤城山麓赤堀邑、住三重郡羽津(毫埃)
| 四日市市史(旧)赤堀三家系図 他 足利又太郎 田原肥前守 赤堀城主・田原孫太郎 ○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐ ┌──────────────────────────────┘ │羽津右衛門大夫 大膳亮 上総介 肥前守 因幡守 右京亮 ├──盛宗─┬─宗久───宗善───宗慶───宗昌───近宗(国虎) │ (国虎) └─中野城主俵藤太郎(天春氏祖) |
藤原 盛宗 赤堀右衛門大夫(〜1410)
応永17.6.14卒 勇信印要山盛宗(毫埃)
羽津 盛宗、右衛門大夫
田原孫太郎景信の長男、羽津に築城(旧四日市市史)
羽津 国虎、左京大夫、右衛門大夫
藤原秀郷の後、また田原又太郎忠広(ママ)の後裔という。文明二年(1470)、下野(ママ)赤堀荘より来住、多芸に使え羽津を称す。二弟を浜田・栗原に文居。命日某年六月十四日(諸士禄)
赤堀 景宗 掃部助 右衛門太夫 (旧城跡附)
羽津 盛宗、景宗、右衛門大夫 田原孫太郎景信の長男、羽津に築城(旧四日市市史)
俵 秀宗、肥前守 俵武蔵守藤原秀郷の後。文明二年(1470)、下野(ママ)赤堀庄より来住
藤原 宗久 赤堀大膳亮(〜1440)
文安元.10.21卒。庭叟智伯(毫埃)
羽津 宗久、大膳亮
盛宗嫡子、羽津城主2代目(桑名志、旧四日市市史)、某年10月21日没(諸士録)
藤原 宗善 赤堀上総介(〜1464)
寛正5.2.2卒 春月善心(毫埃)
羽津 宗善、上総介
盛久嫡子、羽津城主3代目(桑名志、旧四日市市史)、某年12月2日没、禅宗に帰す(諸士録)
藤原 宗慶 赤堀肥前守(〜1493)
明応2.10.15卒 賀屋宗慶(毫埃)
羽津 宗慶、肥前守
盛善嫡子、羽津城主4代目(桑名志、旧四日市市史)、某年10月15日没(諸士録)
藤原 宗昌 赤堀因幡守(〜1540)
天文9.4.1卒 久山宗昌(毫埃)
羽津 宗昌、因幡守
盛慶嫡子、羽津城主5代目(桑名志、旧四日市市史)、某年4月1日没(諸士録)
藤原 近宗 赤堀右京亮(〜1572)
元亀3.6.30卒 天岩知清(毫埃)
羽津 近宗、国虎、右京亮、右京大夫
宗昌嫡子、羽津城6代目。元亀三年(1572)六月晦日、茂福城主山口次郎四郎に饗応を受け毒殺され羽津氏滅ぶ。(桑名志、旧四日市市史)、
右京佐 赤堀氏、四日市羽津城主(三重国盗り物語)
赤堀 某、兵庫助
文明元年(1469)十一月十三日、野美名横領のため、幕府が伊勢国守護土岐政康に赤堀兵庫助の違乱停止を命ぜられる。 (四日市市史所引氏経記)
赤堀羽津 元秀、肥前守
文明十四年(1482)二月三十日、神宮が羽津氏らに祓を贈り、新警護停止を求める。(四日市市史所引氏経記)
浜田 某
明応六年(1497)、内宮一禰宜荒木田守朝から内宮別宮滝原宮御供田の供米納入を求められる。(四日市市史所引守朝引付)
赤堀 秀某 肥前守秀信の子
赤堀 某女 阿洲森家加藤甚兵衛室
赤堀 某女(〜1651)
肥前守秀信の女。山内土佐守臣小澤宗久(萱生族)の室。慶安4年10月10日卒。諡寂昌院心誉宗榮信女(宿野小澤氏系図)
はじめ日野式部の室、後に小澤宗久室となった。子に日野五兵衛、木村次左衛門がある。(伊勢平氏7)
浜田家
| 四日市市史(旧)赤堀三家系図 他 足利又太郎 田原肥前守 赤堀城主・田原孫太郎 ○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐ ┌──────────────────────────────┘ │浜田美作守 紀伊守 近江守 └──忠秀───藤綱───元綱───重綱 |
浜田 忠秀、美作守(〜1488)
応永年代(1394〜1428)田原景信の三男。初代浜田城主。
長享2年11月21日卒、葬建福寺、陽林院東渓春公大禅定門
赤堀浜田 親綱、
文明元年(1469)?十二月七日、野美名上文を高羽江方に納入。(四日市市史所引氏経記)
赤堀浜田 某、
文明十三年(1481)十月二日、内宮一禰宜荒木田氏経より抑留中の船の返付を求められる。(四日市市史所引氏経記)
浜田 藤綱 紀伊守(〜1517)
永正14年7月2日卒、葬建福寺、勝幢院天啓公論(ママ)大禅定門
浜田 光義、出羽守
天文十三年(1544)十一月晦日、連歌師宗牧を迎えて歓待。(東国紀行)
浜田 某、孫太郎
浜田光義の息、天文十二年(1543)ころ元服。天文十三年十一月晦日、連歌師宗牧を迎えて歓待。(東国紀行)
浜田 元綱、遠江守(〜1575)
浜田城主。天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。(旧四日市市史)
天正三年(1575)6月6日、浜田合戦にて自殺。墓碑は鈴鹿郡山本村字本郷垣内に在り。(伊勢名勝志)
葬建福寺、楞厳院発光海印大禅定門
浜田 重綱、(〜1584)
浜田城主。元綱の子。天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。その後織田信雄に属したが、天正12年、秀吉との戦いで、美濃加賀野井城で戦死。浜田家四代の霊は北町建福寺に安置。(旧四日市市史)
5月13日卒、葬建福寺、新豊院洞岩仙公大禅定門
浜田 与右衛門
浜田城主。天正12年(1584)信勝・秀吉不和の時、濃州加賀之井篭城に討死。その後滝川下総守が入城。(旧城跡付)
浜田 某、与五郎 浜田城主。(三重国盗り物語)
浜田 某、甚之丞 田原氏、子孫は紀州路へ逃亡(三重国盗り物語)
| 四日市市史(旧)赤堀三家系図 他 足利又太郎 田原肥前守 赤堀城主・田原孫太郎 ○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐ ┌──────────────────────────────┘ │羽津右衛門大夫 大膳亮 ├──盛宗─┬─宗久 │ (国虎) └─中野城主俵藤太郎(天春氏祖) |
| 蜂須賀家文書
┏秀則 ┏秀章 ○藤原忠利・・・・中野又兵衛━━秀盛━╋秀重━┻重克(阿波藩士祖) ┗弥六兵衛 |
中野 某、藤太郎
中野城主。赤堀、田原(俵)とも称す。藤太郎は赤堀の三男という(勢陽五鈴遺響)。
赤堀 某 藤七郎 中野城主(旧城跡附)
中野 某、藤九郎
石榑北村城主(桑名志)。同書所引の「一甫記」では中野城主という。