四十八士年表

工事中

年号 西暦  記 事
長徳4 998   平致頼と平維衡が北伊勢で合戦
長和2 1013   平致経(致頼の子)が桑名郡の相伝の所領を藤原頼通に寄進して益田荘が建てられた。
長元元 1028 7 平維衡の郎党高押領使・伊藤掾(元景?)が三河国の下女多数を略奪(小右記)
員弁茂助(平安遺文)
長元3 1030   平致経と平正輔(正度の兄)が北伊勢で合戦
承保2 1075   平正衡が天台横川楞厳院僧良心とともに、多度神宮寺法雲寺を天台別院と称して東寺の使者に乱暴を働いて寺領を得ようとした。
保元元 1156   保元の乱。後白河天皇勢に平清盛党の伊勢古市伊藤景綱・忠清・忠直ら加担して利を得る。崇徳上皇側の平忠貞(鈴鹿郡各所)、平正弘(桑名郡富津・員弁郡大井田・笠間・石川)など所領は没収されて後院(天皇)領となる。
平治元 1159 12 平治の乱。源氏のクーデター。平清盛が制圧して武門の棟梁となる。
永暦元 1160   鹿取・野城荘住人が益田荘内の今島・真目箇島を押作したとして益田荘下司員部茂助、訴状を提出
治承4 1180   以人王と源頼政が提携して「令旨」を発して各地に蜂起が起こる。東海道を下った平家の追討使は富士川から逃亡。同道の上総介伊藤忠清は伊勢に赴いた。
壽永2 1183 7 平家余党が伊賀(平田家次)、伊勢(富田家助、平家能、家清、信兼)で蜂起。
    7.25 平家各地で不利、安徳天皇を擁して都落ち
文治元 1185 3 壇ノ浦の戦い。平家没官領に御家人を地頭として置き、残党の探索にあたらせる。
文治2 1186   6月29日頼朝、院宣を奉じて、伊勢国林崎御厨地頭宇佐美実正を罷め、其地を神宮に付す、
文治3 1187   沼田御厨の地頭畠山重忠の目代別当真正が員弁家綱の所従の家財を没収
6月28日頼朝、伊勢国員部郡大領家綱「姓闕く、」の訴に依り、使を遣して、沼田御厨地頭畠山重忠眼代真正の濫行を糾さしむ、大日本史料 4編 1冊 986頁吾妻鏡
文治5 1189   頼朝、令して、神宮領伊勢国沼田御厨地頭吉見頼綱の不法を停めしむ 大日本史料 4編 2冊 694頁 吾妻鏡
建久3 1192 7 7月10日頼朝、征夷大将軍
  1196   平景清(志知南浦館主伊藤景綱の孫)、頼朝に捕まり断食死。
建仁3 1203 3 員弁郡司行綱が伊勢守護夜盗として訴えられる(翌年誤逮捕と判明、許される)。
元久元 1204   三日平氏の乱 伊勢・伊賀で平家残党が蜂起
元久1     2月10日幕府、伊勢守護和田義盛の訴に依りて、同伊勢国員弁郡司行綱を拘禁す、大日本史料 4編 8冊 42頁 吾妻鏡
元久1     11月4日幕府、伊勢国平氏遺跡の地頭をして、大神宮上分米を備進せしむ 大日本史料 4編 8冊 255頁 吾妻鏡
元久2     12月10日幕府、伊勢国新補地頭職の率法を定む、大日本史料 4編 8冊 716頁 吾妻鏡
承久3 1221 5 承久の乱 
天福元 1233   多度神社神主猪名部重員(大日本史料)
仁治2 1241   「作善日記」なる。藤原実重、北伊勢諸国の寺社に喜捨
正和5 1316   伊勢の土民が勅裁に背いたため幕府は富樫家春を地頭に任じ小串行郷・佐竹義念が遣わされたが土民は城郭を構え立ち入りを拒んだ(鎌倉遺文)。
元弘3 1333   7月19日岩松経家を飛騨守護職と為し、又、北条氏の遺領伊勢笠間荘以下十箇処の地頭職を賜ふ、大日本史料 6編 1冊 141頁 集古文書 尊卑分脈
正慶2 1333   護良親王・楠正成の挙兵により倒幕、後醍醐天皇の側近に千種忠顕があった。
元弘3 1333   5月24日足利高氏。吉見円忠に令して、伊勢の凶徒を撃たしむ、大日本史料 6編 1冊 4頁 光明寺残篇 諸家系図纂所収吉見系図
建武元 1334   建武中興
建武2 1335   12月27日伊勢の凶徒吉見範景。蔵人判官清藤「氏闕く」、を、伊勢久留部山に攻め、尋で、安濃津に戦ふ、大日本史料 6編 2冊 852頁 楓軒文書纂所収進藤文書
建武3 1336 11 足利尊氏開幕
延元1 1336   6月9日是より先き、直義、美濃尾張伊賀伊勢等の軍をして東坂本に向はしむ、是日、更に令して、勢多より軍を分ちて上京せしむ 大日本史料 6編 3冊 513頁
元弘3年 1338   田原一族は国司北畠顕信赤堀(当時は栗原)と羽津荘3万7千2百貫宛て行われる。大日本史料 6編 3冊 513頁
暦応1年 1338 9月 義良親王、宗良親王伊勢を発して東国に航し給ふ、親房顕信等之に従ふ、海上颶に遇ひ、義良親王は顕信と共に伊勢に還り、宗良親王は遠江に著し給ひ、親房は常陸に著す、大日本史料 6編 5冊 70頁
暦応2 1339 4 南朝、愛洲宗実に伊勢萱生御厨地頭職を、野田正英に摂津畑野氏の旧領を賜ひて其勲功を賞す(大日本史料 6編5冊472頁 )
暦応2 1339 8 北朝方伊勢国守護高毛師秋の指揮で神山城を攻撃したが9月10日退却、翌日南朝方守護愛洲右衛門尉の指揮で追撃。
暦応3 1340   5月25日尊氏、工藤荘司の伊勢の戦功を褒す、大日本史料 6編 6冊 163頁 勢陽雑記
暦応4 1341   8月14日直義、佐々木高氏を遣して、伊勢の南軍を撃たしむ、因りて尊勝院法印をして往きて之に会せしむ、大日本史料 6編6冊896頁尊勝院文書
9月14日直義、出羽経氏に令して、佐々木高氏が伊勢追討の軍に会せしむ、大日本史料 6編 6冊 928頁 楓軒文書簒十三所収朽木文書 伊勢国司記略
9月23日光厳上皇、室町准后に、伊勢富津御厨以下の諸地を、元の如く管領せしめ給ふ、大日本史料 6編6冊939頁臨川寺重書案文
康永1 1342   8月28日南軍拠る所の伊勢田丸城陥る、大日本史料 6編 7冊 309頁南方紀伝他
文和1 1352   4月19日北畠顕能。伊勢佐藤行清、同弾正忠を招く、大日本史料 6編 16冊 459頁佐藤文書
10月5日細川元氏(清氏、)伊勢に入り南軍と戦ふ、土岐頼康も亦之に赴き阿坂城、中村口等に戦ふ、大日本史料 6編17冊96頁勢陽五鈴遺響他
文和2
正平8
1353   南北朝の争乱中陸奥国信夫郡(福島市)から遠征した佐藤元清が仁木義長軍に属して河内国東条で戦った。8月伊勢出兵を命ぜられた。その後10月に佐藤兵庫助行清に一志郡神戸半分を兵料所領として与えられた(四日市市史)。
4月11日義詮、佐藤元清をして、仁木義長に属して、伊勢の南軍を撃たしむ、大日本史料 6編 18冊 23頁南狩遺文
6月1日南朝、伊勢佐藤元清を招く、大日本史料 6編 18冊 99頁佐藤文書
7月12日尊氏、赤堀勝謂に所領上野貢馬石村、及び伊勢野辺御厨地頭職を安堵せしむ、大日本史料 6編 18冊 222頁 赤堀文書
8月15日義詮、瓦林平九郎をして、仁木義長に属して、近江伊勢の南軍を撃たしむ、大日本史料 6編18冊304頁仁木文書
10月23日仁木義長、佐藤兵庫允に、伊勢一志神戸半分を預く、大日本史料 6編18冊429頁佐藤文書
文和2 1353   7月12日 尊氏、赤堀勝謂に所領上野貢馬石村、及び伊勢野辺御厨地頭職を安堵せしむ(大日本史料 6編18冊222頁 )
文和4 1355   3月6日足利直冬伊勢佐藤清親を招く、大日本史料 6編 19冊 726頁佐藤文書
9月5日 尊氏、
赤堀時秀に、旧所領上野佐位荘内今井郷、淵名荘内香林郷等を安堵せしむ(大日本史料 6編20冊6頁)
延文5 1360   8月29日義詮、伊勢の人佐藤元清をして、仁木義長討伐の軍に会せしむ、大日本史料 6編 23冊 253頁南狩遺文
9月石塔頼房、仁木三郎等、伊賀、伊勢の軍を率ゐて、近江の北軍を攻む、佐々木氏頼等、之を市原城に破る、大日本史料 6編 23冊 270頁太平記他
11月25日幕府、佐藤元清をして、伊勢凶徒退治の軍に会せしむ、大日本史料 6編 23冊 306頁 佐藤文書 太平記
康安1 1361   7月26日北朝、伊勢東富津御厨を方便智院に安堵せしむ、大日本史料 6編 23冊 656頁京都帝国大学所蔵文書
応安1 1368   4月山城金蓮院雑掌定勝、庄十郎(姓闕く、)の同寺領伊勢茂永小泉御厨を押領するを停められんことを幕府に請ふ、大日本史料 6編29冊241頁京都帝国大学所蔵文書所収地蔵院文書
8月1日北朝、廬山寺仁空をして、同寺領若狭前河南荘・美濃麻続牧東方・伊勢高畠御園等を安堵せしむ、大日本史料 6編 30冊 1頁廬山寺文書
正平24
応安2
1369 9 義満の命により土岐頼泰が、伊勢に出動したが、北畠顕能はこれを撃退北進し、頼泰方の三重郡内の諸城を攻略して、新たに桜村、山田、楠山、曾井、水沢、小山田、川尻諸城を築いた。
10月3日南朝前内大臣北畠顕能、伊勢古和一族をして、同国南松本地頭職半分を兵糧料所として知行せしむ、大日本史料 6編 31冊 61頁古和文書
正平25 1370   千種経顕が、前年開かれた三重郡内諸城の総大将となり禅林寺城が開かれた。
春澄家、京七条の家地券を売却(大日本史料)
応安4 1371   閏3月22日細川頼之の弟民部少輔某、伊勢に発向す、大日本史料 6編 34冊 24頁
4月能登吉見兵部大輔某、伊勢に発向す、大日本史料 6編 34冊 55頁
5月10日幕府、五壇法を義満の三条坊門万里小路第に修し、南方及び伊勢の兵乱静謐を祈る、大日本史料 6編 34冊 64頁
5月北党源某、伊勢金剛寺に禁制を掲ぐ、大日本史料 6編 34冊 158頁
6月21日南朝前内大臣北畠顕能、伊勢古和一族をして、同国安濃郡村主能登入道跡及び西郡司職を配分知行せしむ、大日本史料 6編 34冊 175頁
応安5 1372   3月大矢知城の南部左京亮頼勝が叛き、仁木義長に与力したので、北畠顕信は朝倉・見永七朗らに大矢知城を攻めさせたが破れ、茂福城に篭城。国司は大宮入道親子に2000余騎の兵を送りこれを討つ(北畠暦記)。
4月5日
南朝前内大臣北畠顕能、伊勢古和一族をして、同国朝明郡萱生御厨地頭職を知行せしむ(大日本史料 6編35冊299頁)
8月5日幕府、細川頼基を大将と為し、兵を伊勢に発向せしむ、大日本史料 6編 36冊 42頁
応安6 1373   8月北党、伊勢雲津川を渡り、南党を攻む、大日本史料 6編 38冊 101頁
9月8日南党北畠顕泰、伊勢古和一族をして、同国飯高郡深田御園地頭職志村方半分を兵糧料所として知行せしむ、大日本史料 6編 38冊 137頁
至徳2 1385   7月1日 北朝、鶴岡八幡宮神主、同宮領伊勢朝明郡を、大里序福丸に預く(史料綜覧 7冊158頁 6編)
明徳3 1392   南北朝合体
正平8年 1353年   赤堀三朗左衛門入道勝謂が上野国を本貫地とするが、伊勢の国野辺御厨地頭職に派遣する旨の袖半下し文を、足利尊氏が出している。
康暦2 1380   6月13日伊勢の南軍長野某、土岐頼康の族を襲ひて之を破る、史料綜覧 6編 907冊 106頁
至徳2 1385   7月1日北朝、鶴岡八幡宮神主、同宮領伊勢朝明郡を、大里序福丸に預く、史料綜覧 6編 907冊 158頁鶴岡神主家伝文書
康應1 1389   3月1日南党北畠顕泰、北伊勢を攻む、義満、一色詮範、仁木義長をして之を防がしむ、史料綜覧 6編 907冊 184頁南山史
明徳3 1392   11月伊勢国司北畠顕泰、家臣をして、其所領を安堵せしむ、大日本史料 7編 1冊 41頁南方紀傳
明徳4 1393   1月8日伊勢国司北畠顕泰、世保康政と同国鈴鹿郡に戦ひて之を破る、大日本史料 7編 1冊 153頁南朝編年記略ほか
応永6 1399   6月20日 義満、伊勢守護仁木義員をして、同国法楽寺領桑名神戸、伊向神田、末吉、末正両名、泊浦小浜郷等を醍醐寺三宝院雑掌に渡付せしむ(大日本史料 7編3冊983頁 )
11月29日幕府の兵、大内義弘の堺城を攻む、伊勢国司北畠顕泰の子満泰、之に戦死す、大日本史料 7編 4冊 196頁
応永10 1403   2月21日伊勢国司北畠顕泰、同国吉安半分を佐藤助次郎に宛行ふ、大日本史料 7編 6冊 52頁佐藤文書
応永14 1407   9月29日伊勢国司北畠満雅、兵粮料所として、同国遍照寺領を佐藤助次郎に宛行ふ、大日本史料 7編 9冊 181頁佐藤文書
応永20 1413 4 赤堀孫次郎、室町幕府より前年十一月廿七日の安堵に引き続き、伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵
8月16日伊勢国司北畠満雅、沢伊予守をして、同国飯高神戸棟別銭停止のことを地下人に通達せしむ、大日本史料 7編 18冊 331頁内閣文庫沢氏古文書
応永22 1415   南朝に譲位がないことに憤った北畠満雅は関盛雅、一党の神戸・久須・国府・加太その外各国駆催した。
3月28日伊勢国司北畠満雅、沢伊予守某を同国神戸六郷内司職等に補す、大日本史料 7編 22冊 150頁内閣文庫沢氏古文書
4月4日幕府、伊勢国司北畠満雅を伐たんとして、是日、三宝院満済をして祈祷せしめ、聖護院道意をして旗を加持せしむ、尋で、諸将をして発向せしむ、大日本史料 7編 22冊 157頁
5月21日伊勢国司北畠満雅、佐藤新蔵人某に、兵糧料所として同国一志郡神戸を充行ふ、大日本史料 7編 22冊 204頁佐藤文書
9月18日伊勢国司北畠満雅、同国一志郡高野跡を佐藤新蔵人某に充行ふ、大日本史料 7編 23冊 5頁佐藤文書
10月14日幕府、伊勢国司北畠満雅と和す、大日本史料 7編 23冊 14頁満済准后日記
應永32 1425   9月18日幕府、醍醐寺三寶院をして、伊勢國内の闕所を知行せしむ、史料綜覧 7編 907冊 519頁満済准后日記
応永35
正長1
1428   赤堀城は次男の景宗に継がせた。景宗は長男を羽津城に、三男忠秀を浜田城に封じ、赤堀本家は関氏の神戸具盛の次男具氏を養子とし、赤堀治部少輔具氏として継がせた。
7月6日小倉宮は京都を脱出、北畠満雅ヘ走る(三重県の歴史)
8月3日伊勢守護土岐持頼、國司北畠満雅の、持氏の命を受けて、兵を國中に出さんとすることを幕府に報ず、史料綜覧 7編 907冊 552頁満済准后日記 12月北畠満雅敗死
永享1 1429   2月6日幕府、伊勢長野光忠の功を賞し、同國一志郡を宛行はんとす、史料綜覧 7編 907冊 559頁満済准后日記
3月1日 伊勢守護土岐持頼、美濃守護土岐持益等、關忠業を攻む、是日、忠業没落し、其族加太、
赤堀等降る(史料綜覧 7冊560頁 )
永享2 1430   6月23日北畠顕雅、故満雅の子教具を伊勢國司と為さんことを幕府に請ふ、史料綜覧 7編 907冊 576頁満済准后日記
永享3 1431   2月17日伊勢守護土岐持頼、上洛して、義教に謁す、尋で、同國司北畠顕雅亦上洛して義教に謁す、史料綜覧 7編 907冊 585頁満済准后日記
10月8日 義教、伊勢
梅戸御厨を近江榎木荘加納の替所として、山城臨川寺に寄進す(史料綜覧 7冊594頁 )
文安中     奉公衆「幕府番帳案」 
長祿2 1458   4月7日 幕府、相國寺領伊勢梅戸大井戸の替として、近江鯰江荘及び押立保等を同寺に宛行ふ(史料綜覧 8冊80頁 )
  1467   応仁の乱
文明5 1473   6月 桑名妙蓮寺(寿量寺前身)に比叡山僧急襲。大壇越樋口氏(西城主)他山内の僧戦死(桑府名勝志)
8.22より美濃勢北伊勢に侵攻、10.11より北勢の国人は
梅津城に立て篭もり応戦したが、29日落城。その間余勢は河曲郡まで南下したが、北畠軍の出兵により11月から年末にかけて撤退した(四日市市史)。
文明7 1475   長野政高三重郡に出陣(四日市市史)
文明9 1477   足利義政が北畠政郷に替えて、一色義直を守護としたため、これを不満とした北畠氏は北勢に出陣して合戦した。
文明11 1479 11 国司北畠氏、長野氏と北伊勢に戦い神戸城に立て篭もった。この戦いは翌年4月に及んだが、利あらず和睦した(四日市市史)。
文明13 1481   長野氏、久我領石榑荘に入部したが地下人の抵抗により撤退した(久我家文書、四日市市史)
長亨頃     奉公衆「東山殿時代大名外様附」
明應2 1493   7月26日 萱生某、近江永源寺含空院領伊勢久米守忠名及び公文職等を冒占す、是日、幕府、令して之を含空院に還付せしむ(史料綜覧 8編 908冊703頁 )
明応7 1498   桑名兵火、大福田寺焼失(員弁町史)
文亀2 1502   長深初代城主冨永家没
永正7 1510   長野氏が桑名に侵略したため、桑名衆逃散する
永正8 1511   長深2代城主冨永勝利、京都船岡山合戦に討死。
大永2 1522   美濃土岐大膳大夫道譽、員弁郡へ来攻、平古野で討死(員弁町史)
       
天文元 1532   土岐大膳嫡子掃部助、員弁郡へ再来。討死(員弁町史)
天文5 1536   10月18日 伊勢梅津某、長野種藤の知行分本願寺寺領同國桑名の地を違亂せんとするに依り、種藤之を停められんことを本願寺光教に請ふ、史料綜覧 9冊767頁
天文7 1538   長野氏、桑名へ侵略
天文8 1539   3月9日 本願寺光教(證如)をして、一向宗門徒の、御料所伊勢益田莊桑名の地を押妨するを停めしむ(史料綜覧 10冊50頁 )
天文9 1540 長深3代城主冨永勝治没
10月29日 近江六角義賢、長野稙藤を伊勢千草城に攻めて歸るに依り、義晴、其父定頼に物を遺さんとし、内談衆をして、之を議せしむ、(史料綜覧 10冊100頁 )
12月15日
六角義賢、重ねて、長野稙藤を伊勢千草城に攻めて、之を陥る、是日本願寺光教、(證如、)六角定頼に物を贈りて、之を賀す(史料綜覧 10冊104頁 )
天文11 1542 9 江州上田野で略奪した勢州悪徒を山中秀国がこれを召しとったため、15日蟹蟹坂にて江伊合戦が起こり、勢州勢敗退。桑名十兵衛、神戸丹後守、飯高三河守、仁木左馬允、河曲民部少輔討死。
翌月、勢州の反撃に供えて近江勢北伊勢に入り、大田城主田村右近を討ち取り、北勢二郡を取る。(江源武艦)
10月26日
廣橋兼秀を攝津大坂に遣し、本願寺光教(證如)に御料所伊勢桑名の地の貢租督徴を命ぜらる(史料綜覧 10冊157頁 )
天文13 1544 10 連歌師宗牧、東国紀行の途中龍華越え、白瀬、治田、大泉に逗留、連歌の会を催す。
    閏11 連歌師宗牧、東国紀行の途中、那古野より田原一党を浜田に訪問する。
天文15 1546 1 勢州梅戸病気見舞いとして六角より伊庭高資が派遣される。(江源武艦)
弘治1 1555   佐々木義賢が菰野の千種忠房を攻める。
弘治3 1557   六角義賢、員弁郡へ侵攻(員弁町史)
小倉三河守柿城を奪う。それを助けるために神戸下総守が柿に赴いた隙を突かれ神戸城を奪われる。
永禄1 1558   長野の工藤家は北畠具教の次男具藤を養子に迎えて和睦。
長野勢が塩浜に上陸、浜田と堀木勢が迎え撃ち撃退。
塩浜合戦
永録2 1559 8 勢州国司が桑名十兵衛を討つ。このため六角義弼が3000騎にて勢州へ向かう。(江源武艦)
関城主安芸守、神戸蔵人友盛方の茂福城を攻める。
茂福合戦
永禄3 1560 3 千種常陸介は萱生春日部大膳、星川春日部若狭守を与力として三重郡閏田音羽に陣取り千種城主千種太郎左衛門門忠基を攻める
織田信長、今川義元を討ち取る。桶狭間の戦い。
このころ滝川一益が長島の服部友定を欺き蟹江に一城を築く(絵本太閤記)。
永禄4 1561

4.10
桑名城主伊勢氏善、年賀のための留守を滝川一益に奪われる。長島の服部友定、蟹江城を攻めるもあたわず。この時より近郷の木牧・福上・山木・白瀬・浜田・高松ら桑名・員弁郡、滝川に従う(絵本太閤記
梅戸高実、近江高宮で頓死(江源武鑑)
永録5 1562   塩浜合戦、長野氏が関一党を相当しようとしたが敗退。
永禄8 1565 5 将軍義輝が三好三人衆によって殺害される。弟覚慶(義昭)は甲賀の和田城に逃れ、更に近江矢島に逃れる。一説に北金井城に逗留とも
永禄10 1567 信長、滝川一益を北伊勢に派遣。員弁、桑名、朝明、三重の4郡戦わず降伏。
    8
9
信長、桑名郡へ出張、周辺の上木・木俣・茂福以下の豪族を降す。滝川一益を北伊勢の押さえとする。
美濃稲葉山落城、斎藤龍興は船にて長島へ落ちる。
永禄11 1568
2
富永右近、美濃太田より員弁郡に侵入、討死(員弁町史所引北勢見聞集)
織田信長、軍4万で北伊勢を攻略、千草、赤堀等降る。
信長三子三七郎(信孝)を神戸具盛の養子とする。また信長弟信良(信包)を養子とする。
長野城主工藤藤定、
赤堀城を攻め降伏させる。赤堀城は179年で滅亡する。
    9/7 信長、義昭を擁立して、尾張・美濃・北伊勢の兵と家康の援兵六万を従え、六角攻めに出立。9/12信長軍、箕作城を攻撃。そのまま進軍し京都周辺を平定。10/18義昭、将軍宣下を受ける。
永禄12 1569 5 北畠具教の弟木造具政背いて、信長に誼を送る。8月20日信長、岐阜を出立、23日、木造城に着陣、26日秀吉を阿坂城攻めに派遣。10月3日、北畠具教と和議をのんで大河内城を開く。次男茶筅丸(信雄)を養子とする。
元亀元 1570 1 北伊勢諸侍は上洛を命じられ、ついで信長の朝倉義景討伐に従軍したが、大敗し、多くの死傷者が出た。大和を経て伊勢へ帰国した(多聞院日記5/19) 朝倉義景一乗寺にて自害。朝倉滅亡。
    5 信長越前遠征の最中に浅井長政の離反があり、急遽帰京の後千草越えにて岐阜へ向かう途中、千草山中にて杉谷善住房に狙撃される。
5月織田信長,長島の願証寺を5万の軍勢で責めたが敗退。
    10 顕如上人「仏法興隆」決起の檄 11月 織田信長滋賀陣の最中、弟の尾張小木江城主織田信興、侵攻してきた長島一揆のため討死。

織田信長と徳川家康の連合軍と浅井長政と朝倉勢が江州姉川で激突、織田、徳川連合軍の大勝利。
滝川一益が
茂福城主朝倉掃部介盈豊を桑名矢田城でだまし討ち。
織田信長、比叡山焼き討ち。15代将軍追方、足利幕府滅亡。

元亀2 1571 5 12日、信長小木江の報復戦のため、津島に着陣。二手に分かれて長島を襲撃するが、抵抗に不利を感じ16日に退陣。しんがり柴田勝家の軍は、追撃され、氏家卜全など討死。9月12〜15日、信長比叡山全山を焼き討ちする。
羽津城主田原右京亮近宗、茂福城にて滝川一益の家臣山口四郎右衛門に毒殺され、同時に羽津城も攻められ落城。
元亀3 1572   顕如、長島門徒に命じて岐阜城より3里のところに要害を築く
天正元 1573 9 24日、信長北伊勢出向、西別所・坂井・深谷部・白山等一揆勢の篭る砦を一ヶ月かけて攻撃。10月25日着陣。しんがり林新五郎は多芸山麓で一揆のため討死。長島周辺の諸城を落とし質を取る。この年足利氏滅亡
天正2 1574 7 13日、信長は嫡子信忠をはじめ全軍7万(明智光秀、羽柴秀吉を除く)で長島へ出陣
14日、
香取口より柴田佐久間の隊、信忠を市江に、信長は馬廻り丹羽の隊を率いて、北方より侵攻。15日滝川一益・九鬼嘉隆の水軍、信雄の船団が南方より到来。一揆勢は篭城に入ったが、1ヶ月半後の9月29日長島城が降伏して、一揆は終結した。
滝川一益に
北伊勢五郡が与えられる。
天正3 1575
10
6月滝川一益が浜田城、赤堀城を攻略。中川掃部助奮戦討ち死に
本願寺、信長に和睦を申し入れ赦される。
天正4 1576 4 種村千代治、大木安芸守、長島城に呼び出され、種村自刃、大木西奔という。
信雄は北畠を滅ぼした
       
       
  1582 6 本能寺の変、伊藤彦作討死
天正11 1583   秀吉、多良、君ヶ畑、安楽寺より桑名の一益を攻める伊勢・伊賀は織田信雄の所領となる。
2月16日
羽柴秀吉、兵を率ゐて、伊勢に入り、峰、桑名等の諸城を攻む、自ら瀧川一益の将佐治新介を亀山城に囲む(大日本史料 11編3冊643頁 )
10月26日
廣橋兼秀を攝津大坂に遣し、本願寺光教(證如)に御料所伊勢桑名の地の貢租督徴を命ぜらる(史料綜覧 10冊157頁 )
天正12 1584   3月18日 徳川家康、尾張緒川先方衆及び同国常滑先方衆をして、本領を安堵せしめ、伊勢桑名に到りて、水野忠重の命を受けしむ(大日本史料 11編6冊70頁 )
5 美濃国加賀之井城の戦いにて
伊勢衆千種、神戸、峰、上木討死、は虜となり秀吉に害せられる。他に采女・後藤・長深も打ち取られる。
    11 5日、秀吉は羽津の附城に本陣を置き、桑部城・柿城を落とす。6日縄生に移り、稗田・鳥出(富田)に附城を築き桑名に迫ったため、信雄は質を出し所領を北勢四郡として講和。
11月6日 羽柴秀吉、伊勢羽津・萩原等に砦を築く、同国桑名表に出で、桑部・柿多等の砦を奪ふ大日本史料 11編10冊103頁
11月15日 羽柴秀吉、織田信雄・徳川家康と和を講ず、秀吉、信雄と伊勢桑名附近に相会す(大日本史料 11編10冊159頁 )
天正13 1585   岐阜県、富山県、滋賀県、名古屋市、三重県、京都府などにM8クラスの大地震が起き、大きな被害が記録されている。
「織田信雄分限帳」
天正18 1590   豊臣秀次が北勢五郡領有。桑名代官一柳直盛 多胡實元、小田原に討死。飯田左衛門尉、上笠田城主となる(員弁町史)
文禄元 1592 3 文禄の役、大木土佐(元大木城主)富永勝秀(元長深城主)加藤清正に従い渡海。富永は釜山海に討死。
       
文禄4 1595   秀次自殺。上笠田城主飯田左衛門失脚、所領没収(員弁町史)。氏家行広桑名城主となる。
       
慶長2 1597 1 慶長の役
慶長5 1600   6月20日 徳川家康、伊勢四日市に泊す、同國桑名の氏家行廣の請を辭し、海路三河に赴く(史料綜覧 13冊226頁 )
関が原の役
慶長6     桑名城主本多忠勝  2月是月 徳川家康、本多忠勝を伊勢桑名に加封す(史料綜覧 13冊290頁 )
3月是月 徳川家康、伊勢
桑名の春日社をして、社領を安堵せしむ(史料綜覧 13冊294頁 )
       

多聞楼(TOP)

 


[PR]女性が輝く公文の先生募集中!:全国で教室開設説明会開催